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豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし) 豊臣家初代当主、織田家家臣 |
別名、改名、通称 | 日吉丸(幼名)、木下藤吉郎、木下秀吉、羽柴秀吉 | |
官位 | 関白、太政大臣、権大納言、内大臣、筑前守など | |
生没年 | 天文六年(1537)〜慶長三年(1598) | |
墓所 | 京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ヶ峰町 豊国廟 | |
ゆかりのお城 | 大坂城、伏見城、聚楽第、姫路城、長浜城、墨俣城、宝寺城 肥前名護屋城、石垣山城、備中高松城、三木城、鳥取城 |
豊臣秀吉の生涯 |
農民の子から天下人になった戦国一の出世頭である。身分や家柄にこだわらず能力を重視する織田信長は、秀吉を重用したが、秀吉自身も持ち前の知略を駆使して、出世街道へのっていく。また、「人たらし」といわれ、身分の低い頃から蜂須賀小六や竹中半兵衛といった優れた人物が配下となっていることからもカリスマ性があり、人心掌握術に長けていたと思われる。そして、信長の意思を受け継ぎ天下統一を成し遂げ戦国の世を終わらせた功労者である。 秀吉の幼少期は不明な点が多いが木下弥右衛門となか(のちの大政所)の子として尾張国中村で生まれたとされている。その後、丁稚奉公などを行い生計を立てるが、もっと大きな仕事をしたいと考えるようになり、天文二十三年(1554)頃より織田信長に仕えるようになる。小物として草履取りなどを経て、持ち前の知恵を駆使し着実に出世していき、永禄四年(1561)頃、ねね(のちの北の政所)と結婚する。美濃攻めでは、蜂須賀小六などと共に墨俣一夜城を築き、美濃に橋頭堡を築く功績を挙げている。また、後に秀吉の軍師として活躍する竹中半兵衛を配下とするなど次々と手柄を立てていく。 永禄十一年(1568)には、信長の上洛戦に従軍し、京都の奉行に任じられている。その後も北伊勢攻略戦や越前金ヶ崎での殿軍(しんがり)を務め、功績を挙げていく。そして天正元年(1573)、小谷城の浅井攻めで大功があり、信長より北近江12万石を与えられ、長浜城主となり一国一城の主となる。やがて、信長より中国地方攻略を命じられ、苦節を重ねながらも、播磨、但馬、因幡などを次々平定していく。途中、別所長治、荒木村重などが叛旗を翻し、中国攻めは一次的に頓挫するも、宇喜多直家を味方に引き入れてからは、戦いを優位に進めていく。三木城攻めの途中、竹中半兵衛を病没により失うが、半兵衛に劣らない知恵者である黒田官兵衛が幕下に加わっていた。そして別所長治籠もる三木城を兵糧攻めにより攻略し、さらに毛利家の吉川経家籠もる鳥取城でも兵糧攻めにより開城させている。 天正十年(1582)には、毛利方の名将・清水宗治が城主の備中高松城を囲み、世に名高い水攻めを行う。ついに毛利軍も、高松城救援に毛利輝元自ら出陣し、吉川元春、小早川隆景と共に高松城近くに陣取ってきた。秀吉の水攻めのため、毛利軍も手出しが出来ず手をこまねいている間に、秀吉は信長に救援を要請する。しかし、信長は京の本能寺において明智光秀の謀反によって自害してしまう。この情報を毛利軍より早く得た秀吉は、ただちに休戦を毛利方に提案し、高松城主・清水宗治の切腹を条件に講和する。講和が成立すると直ちに軍を畿内へ向けて出発させ、常識を超えた速さで行軍し、備中高松からわずか6日間で光秀との決戦場となる地に到着するのである(中国大返し)。羽柴軍は、織田信孝、丹羽長秀、池田恒興などが味方したため、その軍勢は3万5千。それに対し、明智軍は思うように味方が現れず、1万5千と数の上で劣った。羽柴軍と明智軍の激突は山崎・天王山で行われ、数に勝る羽柴軍が大勝する(山崎の戦い)。光秀は敗走中に落武者狩りの農民に襲われ、重傷を負い切腹して果てた。これにより、秀吉は信長の覇権を受け継ぐ1番手として大きく前進する。 明智の残党一掃が一段落すると、信長の跡目とその遺領配分を決定するため織田家重臣である羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の四人により会議が行われる(清洲会議)。この会議で主導権を握ったのは当然、光秀を討った秀吉で、まんまとまだ3歳の三法師を織田家の跡目にし自分の思い通りに事を運んでいくのである。この会議後、しだいに秀吉と勝家の対立は激しくなっていき、秀吉には、池田恒興、丹羽長秀、織田信雄などが味方し、勝家には滝川一益、織田信孝、佐々成政などが味方した。秀吉は、勝家が雪で動けない冬を狙って、岐阜の織田信孝と北伊勢の滝川一益の各個撃破を狙い軍事行動を開始する。長浜城主柴田勝豊、岐阜の織田信孝は早々に降伏し、滝川一益はよく持ち堪えてはいたが劣勢であった。この状況に勝家は、雪解けを待たず3月初旬に北近江に向けて軍を進める。北伊勢攻略中だった秀吉は、織田信雄と蒲生氏郷に北伊勢を任せ、自身は北近江に向かい、木之本に陣取る。しかし、互いに陣地を構築して攻めるに攻められず、膠着状態が続く。秀吉は、この間に再び蜂起した岐阜の織田信孝を討伐に向かうが、その隙を狙って勝家方の佐久間盛政が大岩山に陣取る中川清秀を討ち取り占拠。さらに岩崎山も占拠し、敵陣深く入った盛政に対して勝家は退却を命じるが盛政は秀吉を侮り拒否する。秀吉は柴田軍が動いた事を知ると中国大返しを彷彿させるような神速で木之本に引き返し、佐久間盛政軍を攻撃する。予想以上に早く引き返してきた秀吉軍に盛政は驚き、全軍に退却を命じるもすでに遅く秀吉軍に追撃される。佐久間軍は踏ん張るが前田利家、金森長近らの戦場離脱が引き金となり総崩れとなる。こうなると勝家も本陣を守りきれず敗走(賤ヶ岳の戦い)。勝家は、北ノ庄城でお市の方と共に自刃して果てる。そしてその後、織田信孝と滝川一益も降伏させ、反秀吉派を一掃する。 賤ヶ岳の戦いの時には秀吉に味方した織田信雄であったが、戦後、秀吉の専横に危機感を募らせ、徳川家康を頼り秀吉と対立し始める。そしてやがて、小牧・長久手の戦いへと発展していく。軍勢の数では羽柴軍が圧倒的に多かったが、織田・徳川軍は小牧山に陣取り防御網を万全なものとした。そのため秀吉も攻めるに攻めれずこう着状態が続く。この状況を打破しようと羽柴軍は秀吉の甥・羽柴秀次を総大将とした軍を徳川領の岡崎に向けて進軍する。しかし、逆に家康に察知され、長久手辺りで背後から奇襲され秀次軍は総崩れとなり、池田恒興・元助親子、森長可が戦死する惨敗となる。その後はまた戦線は膠着し、秀吉は織田信雄領の各城を攻撃したり、信雄家臣への内応工作をしきりに行うようになる。これらの攻撃や調略は次第に信雄側に打撃を与え、ついには秀吉の誘いにのり、秀吉と信雄は講和する。これにより、信雄を助けるという大義名分を失った家康は自国へ退却していく。やがて、家康も単独では秀吉に対抗できないと判断し、秀吉と講和、事実上秀吉の臣下となるのである。 その後も秀吉は天下統一にまい進し、紀州、四国、九州と平定し、残りは関東の北条氏と奥州を残すのみとなる。秀吉は再三、関東の北条氏政・氏直父子に対しても上洛を促したが、氏政・氏直父子は秀吉の実力を侮り、応じようとはしなかった。そして、北条氏邦家臣・猪俣邦憲がすでに秀吉の臣下になっていた真田昌幸の支城・名胡桃城を攻め取ったのをきっかけに小田原攻めが開始される。秀吉の大軍に北条方の関東諸城は次々落城し、小田原城はすぐに20万を超える大軍に包囲され、孤立する。この時、小田原城を打って出るか、籠城するかを論争した北条方の小田原評定は有名である。北条方は、3ヶ月持ちこたえたが次第に戦意喪失し、北条氏政・氏直父子は開城し降伏した。この小田原城包囲時に、奥州の伊達政宗も臣従してきていたため、北条氏降伏により秀吉の天下統一はほぼ成されたのである。 天下統一後、秀吉は朝鮮・明国侵略の準備を進め、文禄元年(1592)に約16万の大軍を朝鮮に渡海させ侵略を開始した(文禄の役)。当初は李氏朝鮮国の弱体と油断により日本軍は快進撃を続け、わずか20日間ほどで首都・漢城(ソウル)を落としている。しかし、明国の援軍や朝鮮各地で蜂起した義兵などにより、日本軍は次第に劣勢になり、寒さと食料不足がさらに追い討ちをかけた。これにより、日本軍は講和を模索するようになり、明国も講和に前向きであったため一次休戦状態になる。しかし、講和交渉は決裂し、慶長二年(1597)、再び朝鮮侵略を開始する(慶長の役)。慶長の役も当初、日本軍が優勢であったが翌年には、劣勢が伝えられ始める。この時期になると秀吉も次第に体調を崩し始め、病床に伏せるようになる。そして、徳川家康、前田利家などに幼少の秀頼の今後を頼み、慶長三年(1598)八月十八日、伏見城にて62歳で生涯の幕を閉じる。 辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 秀吉が天下統一し、権力を手中にしてから次第に豊臣政権に暗雲が立ち込めてきていた。豊臣政権の宰相といわれた弟・秀長の死、千利休、関白・秀次への切腹命令などである。そして、秀吉死後、朝鮮出兵の失敗により豊臣政権内の対立を生み(石田三成派と加藤清正を中心とする武功派の対立)、関ヶ原の戦い後には徳川家康に政権を事実上奪取される。 |
豊臣家の家紋 「五七桐」 |
父:木下弥右衛門 母:なか(大政所) 正室:北政所(高台院) 側室:淀殿(浅井長政の娘)ほか 兄弟:豊臣秀長、朝日姫 子:豊臣秀頼、鶴松 孫:国松 |
豊臣秀吉 関連年表 |
1537年(天文六年) | 尾張国愛知郡中村にて木下弥右衛門の子として生まれる(諸説あり)。 |
1554年(天文二十三年) | この頃、織田信長に仕え始める。 |
1560年(永禄三年) | 織田信長軍が桶狭間の合戦で今川義元を討ち取る。 |
1565年(永禄八年) | 信長の領地宛行状の副状を秀吉が出す。(秀吉の現存最古の書状) |
1566年(永禄九年) | 墨俣一夜城を築く(創作説有力)。 |
1567年(永禄十年) | 織田軍、斎藤龍興が籠もる美濃・稲葉山城を攻略。 |
1568年(永禄十一年) | 信長の上洛戦に従軍。 |
1569年(永禄十二年) | 但馬・播磨出兵。 北伊勢出兵。 明智光秀などと共に京都の奉行職に就く。 |
1570年(元亀元年) | 4月、信長、朝倉攻めを行うも浅井長政の裏切りにより撤退。秀吉、金ヶ崎城に残り殿軍を見事にこなす。(金ヶ崎退き口) 6月、姉川の合戦に従軍し、織田・徳川連合軍の勝利に貢献。浅井氏けん制のため横山城を守備する。 |
1573年(天正元年) | この頃、羽柴性に改める。 八月、小谷城落城し浅井氏滅亡。 浅井氏の旧領・北近江3郡12万石を与えられ一国一城の主となる。 |
1574年(天正二年) | 琵琶湖岸の今浜に築城を開始し、城下町を長浜と改める。 |
1575年(天正三年) | 5月、長篠の戦いに参戦。 8月、越前一向一揆鎮圧戦に参戦。 |
1577年(天正五年) | 8月、上杉謙信に備え加賀出兵するも、柴田勝家と意見が合わず陣を勝手に引き払い、信長の逆鱗に触れる。 10月、中国地方攻略のため播磨国に入る。松永久秀が籠もる信貴山城攻めに参加。 |
1579年(天正七年) | 竹中半兵衛病没。 |
1580年(天正八年) | 兵糧攻めにより別所長治が籠もる三木城を落とす。(三木の干殺し) |
1581年(天正九年) | 毛利方・吉川経家が籠もる鳥取城を落とす。(鳥取の渇え殺し) |
1582年(天正十年) | 5月、備中高松城の水攻めを開始する。 6月、本能寺の変により主君・織田信長自害。 6月、山崎の戦いで明智光秀を破る。 6月、清洲会議 10月、京都紫野・大徳寺で信長の葬儀を行う。 |
1583年(天正十一年) | 4月、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。 9月、大坂城の築城を開始する。 |
1584年(天正十二年) | 小牧・長久手の戦いにて徳川家康・織田信雄と戦う。 |
1585年(天正十三年) | 3月、紀伊・雑賀攻めを行う。 7月、関白に叙任。 7月、四国攻めを行い、長宗我部元親を降伏させる。 |
1586年(天正十四年) | 太政大臣に叙任。 |
1587年(天正十五年) | 九州征伐により島津義久を降伏させる。 |
1588年(天正十六年) | 刀狩令を出す。 |
1590年(天正十八年) | 小田原征伐により北条氏を滅ぼす。(天下統一) |
1591年(天正十九年) | 1月、弟・秀長病没。 4月、千利休に切腹を命じる。 8月、子・鶴松没す。 10月、関白職を甥・秀次に譲り、自身は太閤と称す。 |
1592年(文禄元年) | 1月、朝鮮出兵を命じる。(文禄の役) 7月、大政所没す |
1593年(文禄二年) | 淀殿、秀頼を生む。 |
1595年(文禄四年) | 関白・秀次に切腹を命じる。 |
1597年(慶長二年) | 朝鮮再出兵を命じる。(慶長の役) |
1598年(慶長三年) | 伏見城で没す。 |
名古屋市中村区の中村公園内にある秀吉誕生碑 豊臣秀吉誕生の地といわれている。中村区下中村町という説も。 |
大坂城(復興天守) 秀吉は石山本願寺のあった地に天下人にふさわしい巨大な城を築いた。 |
中村公園内にある日吉丸と呼ばれた頃の秀吉とその仲間たちの像 |
豊太閤産湯の井戸 秀吉生誕当時には近隣に類ない清水が溢れたと伝わる井戸。 |
常泉寺にある豊臣秀吉像 |
中村公園内にある豊国神社 |
秀吉が水攻めを行った備中高松城跡 |
蛙ヶ鼻築堤跡 備中高松城水攻めで造られた築堤跡 |
大阪城豊国神社にある豊臣秀吉像 |
大阪城内のの豊国神社 |
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