明智光秀
(あけちみつひで)
別名、改名、通称 十兵衛、惟任日向守
官位、役職 従五位下・日向守
生没年 享禄元年(1528)?~天正十年(1582)
墓所 京都府北桑田郡京北町 慈眼寺
和歌山県伊都郡高野町 高野山奥の院
ゆかりのお城 坂本城、丹波亀山城、福知山城、北山城、黒井城、八上城、
有岡城、信貴山城、勝龍寺城、美濃明智城

明智光秀の生涯
 明智光秀は文武に優れ、また教養もあった武将といわれている。その優れた能力により織田信長からも重用され、出世を重ねて織田政権において重きをなした。近江・志賀郡と丹波一国の支配権を与えられ、その領国は30万石を超えた。しかし、謀反を起こし京都の本能寺で主君・信長を二条御所で信忠をそれぞれ自害に追い込む。そのわずか12日後山崎の戦い羽柴秀吉に敗れてしまい、逃走中に農民に襲われ自害して果てる。



 光秀は美濃国明智城主・明智光綱の子で土岐氏の家系ともいわれるが、不明な点が多くはっきりしない。当初、斎藤道三に仕えていたが、道三が滅ぶと流浪の身となり、朝夕の食事にも苦労した生活を送ったといわれる。

 その後、光秀は越前の朝倉義景に仕えることとなる。永禄八年(1565)、13代将軍・足利義輝が松永久秀や三好三人衆に襲撃され殺害される事件が起こる。足利義輝の弟である足利義昭は京を脱出し、やがて朝倉義景を頼って越前・一乗谷に身を寄せてきた。光秀は義昭の家臣である細川藤孝と誼を通じることにより、義昭に接近しその配下となる。(それ以前から義昭と接点があったという説もある。)義昭は一刻も早く京に戻り将軍となりたかったようだが、朝倉義景には上洛する実力と気概を持ち合わせていなかった。そのため義昭は、美濃を攻略し勢いに乗る織田信長に、自分を奉じての上洛を持ちかけた。光秀は信長との交渉役として話をまとめ、義昭とともに越前を去り信長を頼ることになる。美濃に身を寄せてから光秀は義昭の家臣でありながら、信長にも仕えるようになる。

 足利義昭を奉じて京を目指すという大義名分を得た信長は永禄十一年(1568)九月、上洛戦を開始する。これに光秀も当然同行し、義昭とともに入京を果たす。京に入ってから光秀は織田家の重臣たちとともに京畿の織田領の政務にあたり、さらに織田軍の一員として各地を転戦するようになる。元亀二年(1571)の比叡山焼き討ちには光秀も参戦し功績を挙げ、信長から延暦寺の寺領であった近江・志賀郡の地を与えられて坂本城を築き本拠とした。一方で光秀は義昭からも知行を受ける幕臣でもあり、北山城の支配をまかされていた。しかし天正元年(1573)に義昭が信長に京を追放され室町幕府が滅ぶと、織田家の直臣となる。

 天正三年(1575)六月に、光秀は丹波経略の命を受ける。丹波攻めでは赤井氏の重鎮で黒井城主・赤井直正や八上城主・波多野秀治らの抵抗を受け苦戦することになる。それでも光秀は丹波攻めに専念していたわけではなく、その間にも石山本願寺攻め・雑賀攻め・松永久秀攻めに参戦している。どの戦にも重要な役割を果たし、信長の信頼も抜群であった。その後も丹波攻略を進めつつ、石山本願寺攻め、播磨への援軍、謀反を起こした荒木村重攻めなど休むことなく各地を転戦している。天正七年(1579)になると、光秀はようやく丹波攻めに本格的に取り掛かれるようになり、五月五日には波多野氏の有力な支城である氷上城を落とし、六月一日に本城・八上城を落とし波多野氏を滅ぼす。ついで、前年に家中の支柱であった直正が死没し弱体化していた赤井氏の黒井城を攻め、八月九日に落城させ赤井氏も滅ぼす。この年にようやく丹波一国を平定し、その恩賞として信長から丹波一国の支配権を与えられ亀山城を居城とした。さらに、丹後の細川藤孝や大和の筒井順慶が組下の大名として光秀の指揮下に付けられ、その規模は織田家の中でも屈指のものとなる。

 天正十年(1582)五月、光秀は毛利氏と対峙している羽柴秀吉への援軍部隊として中国地方に向かうように信長から命じられる。出陣の準備が整ったため、六月一日に光秀は1万3000の兵を率いて丹波亀山城を出発。しかし明智軍は中国方面には向かわず、丹波口より京に入り主君・信長が宿泊する本能寺を奇襲し、六月二日未明に信長を討つことに成功する(本能寺の変)。さらに二条御所に籠もる信長の嫡男信忠も討ち、京を制圧する。六月五日には、安土城に進出し無血入城を果たし、さらに佐和山城・長浜城などを落とし近江で支配勢力を拡げた。光秀は六月九日、京に入り朝廷や寺社に対して金銭を献じ支配権の掌握に努めた。しかし、光秀が頼りにしていた姻戚関係のある細川藤孝・忠興父子に助勢を頼む書状を送るも返答がなく、さらに組下大名で仲間になるだろうと踏んでいた筒井順慶は曖昧な態度で積極的に行動することはなかった。

 光秀に合力してくれる大名がほとんど集まらない中、毛利氏と対峙していたはずの羽柴秀吉が俗に言う中国大返しで本能寺の変からわずか10日足らずの六月十一日昼頃には尼崎に軍勢を引き連れて到着していた。さらに、羽柴軍には中川清秀・高山右近・池田恒興ら摂津衆をはじめ、丹羽長秀・織田信孝の軍勢までもが羽柴軍に合流しその数は3万5000に達し京に向けて進発してきた。対する明智軍には、結局ほとんど援軍が現れず、その数1万5000と羽柴軍に大きく劣ったまま、下鳥羽に布陣。そして六月十三日の夕方前に両軍は天王山(摂津国と山城国の境に位置する)の麓で激突するが、緒戦から数に劣る明智軍は劣勢となり夜には明智軍の敗戦が決定的となり、一旦勝龍寺城に籠もるが多勢に無勢のため、光秀は再起を期して近江坂本に向けてわずかな供を連れて敗走する(山崎の戦い)。しかし、光秀は伏見の小栗栖にさしかかったところで農民に襲われ重傷を負い、出血もおびただしかったことからその場で切腹して果てた。本能寺の変からわずか12日目の出来事だった。享年55といわれる。介錯したのは家臣の溝尾勝兵衛で光秀の首は近くの藪に埋めたとも坂本城まで持ち帰ったともいわれている。光秀はこの時死なずに生き延び、後年家康の知恵袋・南光坊天海となったとする珍説もある。


本能寺の変(光秀謀反の謎) スポンサーリンク
戦国最大の謎とされる本能寺の変。光秀謀反のきっかけは何だったのかは諸説あるが主な説を挙げてみる。

怨恨説
  よく前から小説などであった説で、諸将の面前で信長から何度か折檻を受け恥をかかされ恨みをもったとする説。

野望説
  中国地方に出陣のため怪しまれることなく軍勢を集められ、さらに信長が京でわずかな供しか引き連れていないことを知っていた光秀はこの絶好の機会を見逃さず、信長を討って天下を狙おうとした説。

四国説
  信長による四国・長宗我部元親に対する政策の転換で、両家の仲介役を務めていた光秀が面目を失って謀反に至ったとする説。本能寺の変が四国征伐直前だったため、近年有力な説の一つとなっている。

朝廷黒幕説
  正親町天皇の譲位を工作するなど朝廷を軽んじていた信長に対して、危機感・嫌悪感を抱いた朝廷が勤皇家で朝廷と関係の深い光秀をそそのかしたとする説。朝廷内では近衛前久・吉田兼和らが反信長派の急先鋒といわれる。

足利義昭黒幕説
  室町幕府を滅ぼされ京を信長に追われた義昭だったが、信長を打倒し再び将軍になる野望を捨てておらず、かつて家臣だった光秀に信長を討たせたとする説。

羽柴秀吉黒幕説
  毛利氏と備中高松で対峙していた羽柴秀吉があまりにも手早く京に上ってきたため、秀吉が光秀に謀反を起こすように仕向けていた又は共謀していたとする説。

徳川家康黒幕説
  武田氏を滅ぼした信長は、同盟関係にあった家康を次第に邪魔に感じ亡きものにしようと画策していたとする説があり、それを察知した家康が光秀を逆に利用して謀反起こさせたとする説。南光坊天海=光秀説に連なる。


丹波国を平定した明智光秀が天正七年(1579)に築いた福知山城

明智光秀が合祀されている御霊神社(福知山市)
京都堀川四条近くにある「本能寺の変」の舞台となった本能寺跡


明智家の家紋
「水色桔梗」
父:明智光綱・光隆・光国?(美濃国明知城主とも伝わるが不明)

正室:煕子(妻木範煕の娘)

子:明智光慶、珠「細川ガラシャ」(細川忠興正室)


明智光秀 関連年表
1528年(享禄元年)? 光秀が美濃国で生まれる?
1556年(弘治二年) 長良川の戦いで斎藤道三が死亡し、光秀流浪の身となる。
越前の朝倉義景に仕える。
1565年(永禄八年) 足利義輝が三好三人衆・松永久秀に殺害され、足利義昭が京を脱出し後に朝倉氏を頼る。光秀、義昭に仕える。
1568年(永禄十一年) 光秀が義昭と織田信長の仲介役を務め、義昭は信長を頼り美濃に向かう。信長、義昭を奉じて上洛し、義昭は室町幕府十五代将軍となる。
1569年(永禄十二年) 光秀、織田家の重臣とともに京畿の政務にあたる。
1570年(元亀元年) 金ヶ崎の退き口で羽柴秀吉らとともに殿を務める。
1571年(元亀二年) 比叡山焼き討ちで大きな功績をあげ、近江国志賀郡を与えられ坂本城を本拠とする。
1573年(天正元年) 足利義昭が信長に追放される。
1575年(天正三年) 6月、信長より丹波経略の命令が下り、丹波攻略を開始する。
1576年(天正四年) 1月、波多野氏が背き、光秀丹波より一旦撤退する。
2月、再び丹波に攻め込む。
4月、石山本願寺攻めに参戦する。
1577年(天正五年) 2月、雑賀攻めに参加。
10月、松永久秀謀反により信貴山城の戦いに参戦する。
1578年(天正六年) 4月、石山本願寺攻めに参戦する。
10月、姻戚関係にあった荒木村重が謀反を起こす。
1579年(天正七年) 5月、波多野氏の有力な支城である丹波・氷上城を落とす。
6月、丹波・八上城を落とし波多野氏を滅ぼす
8月、黒井城を落とし赤井氏を滅ぼす。
丹波国・丹後国を平定。
1580年(天正八年) 丹波一国の支配権を与えられ、亀山城を居城とする。
1581年(天正九年) 6月、全十八条から成る軍規を定める。
1582年(天正十年) 3月、武田攻めのため信長が安土城を出発し光秀も従軍する。
5月17日、光秀、徳川家康の饗応役を免ぜられ、安土から坂本城に帰る。
5月26日、軍勢を引き連れて坂本城を発し丹波亀山城に入る。
5月27日、霊峰愛宕山に登り籤を引き、必勝祈願をする。
5月28日、愛宕威徳院で百韻連歌に参加し、「ときは今天が下たる五月かな」の句を詠む。
6月1日、光秀、軍を率いて丹波亀山城を出発する。
6月2日、京・本能寺で信長を討つ(本能寺の変)。二条御所で信忠を討つ。
6月5日、安土城を接収する。佐和山城、長浜城を攻め取る。
6月8日、安土城を明智秀満に預けて坂本城に帰る。
6月9日、京で朝廷や寺社に金銭を進上する。
6月10日、筒井順慶の出陣を待つため洞ヶ峠に陣を敷く。光秀、夜に羽柴秀吉軍の急速な東上を知る。
6月11日、洞ヶ峠から下鳥羽に本陣を移す。
6月12日、山崎付近で羽柴軍と明智軍の間で双方の鉄砲隊による銃撃戦が起こる。
6月13日、下鳥羽から御坊塚に本陣を移す。夕刻頃、明智軍山崎の戦いに敗れる。光秀、坂本へ敗走途中に農民に襲われ負傷し自害して果てる。




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