伊達政宗
(だて まさむね)
伊達家十七代当主、仙台藩初代藩主
別名、改名、通称 梵天丸、藤次郎、独眼竜
官位、役職 従三位権中納言、正四位下参議、陸奥守、越前守
生没年 永禄十年(1567)〜寛永十三年(1636)
墓所 宮城県仙台市 瑞鳳寺瑞鳳殿
和歌山県 高野山 奥の院  
ゆかりのお城 仙台城、米沢城、岩出山城、黒川城

伊達政宗の生涯
 奥州の雄・伊達政宗は、家督を継いでわずか5年ほどで南奥州の大半を征服した名将である。天下統一目前の豊臣秀吉には、さすがの政宗も屈服するが、徳川の時代になっても野心を抱き続けたといわれ、歴代の将軍にも一目おかれた存在であった。



 政宗は、永禄十年(1567)、伊達家十六代当主・伊達輝宗の子として、出羽・米沢城に生まれる。幼い頃に、病気になり右目を失ってしまう。右目を失い、内気になっていた政宗を心配し、父・輝宗が名僧として名高い・虎哉禅師に政宗を預け、教育させた。この禅師の教育が政宗に大きな影響を与え、後の勇躍につながっていく。ちなみに後の政宗の右腕として活躍する片倉小十郎景綱は天正三年(1575)に近侍となっている。天正五年(1577)に元服すると、天正九年(1581)には15歳で初陣を飾り、輝宗の期待に違わぬ働きをみせる。そして、天正十二年(1584)、父・輝宗は、政宗の将としての並々ならぬ能力に期待し、弱冠18歳の政宗に家督を譲り、隠居する。

 政宗が家督を継ぐとまず、帰順してきたのが小浜城主・大内定綱だったが、この大内定綱はすぐさま、政宗を若輩と侮り、会津の蘆名氏へ寝返ってしまう。これに激怒した政宗は、定綱の支城である小手森城を攻め落とし、老若男女を問わず、城中にいるすべてを惨殺するという、撫で斬りを行う。この地方では、例のない殺戮行為で周辺の豪族を恐れさせるに十分であった。当の大内定綱は恐れおののき、蘆名氏を頼って小浜城を捨て、逃げ延びたのである。これに危機感を募らせたのは定綱の隣国である畠山義継である。伊達家と和議し、従う姿勢を見せた義継であったが、内心は別のところにあった。義継は、政宗の父・輝宗に挨拶に行った帰りに突如、輝宗を人質に取りそのまま自国へ帰ろうとしたのである。周りの家来は、輝宗を人質に取られ、なすすべがなかった。政宗はその時、鷹狩に出ており、その急報を聞き、現場に駆けつけるが義継らは畠山氏との国境付近までせまっていた。輝宗を人質に取られたまま、領国に帰られてしまうと、畠山氏に対して大きな弱みを握られてしまうことになる。輝宗は「自分にかまわず鉄砲を放て」と叫び、政宗はやむを得ず鉄砲を放ち、畠山一行はもちろん輝宗までも射殺し、事件の幕を閉じる。

 しかし、政宗が畠山氏をそのままにしておくはずもなく、直ちに二本松城の畠山氏攻略を始める。畠山氏の方も当主・義継を討たれ、戦意が高いうえ、蘆名・佐竹を中心とした岩城・石川・二階堂・結城・相馬ら率いる3万の連合軍が畠山氏救援に駆けつけてきたのである。この連合軍に対し、伊達軍は一部の兵を畠山氏に対して割いたため、約8千の兵で対峙する。政宗にとってこれが生涯最大の危機であった。両軍は激突し、人取橋付近が一番の激戦となる。伊達軍は、鬼庭良直が討たれるなど劣勢ながらも何とか守りきり、連合軍が突如、退却してしまうという幸運にも助けられ、この戦を乗り切る(人取橋の戦い)。

 その後、政宗は再び、二本松城を攻め、畠山氏を滅ぼす。さらに、蘆名、佐竹連合を中心に仙道諸家とも争いつつ、徐々に領土を広げていった。さらには、北にも目を向け、大崎氏を攻めるがこれは失敗している。

 そして、政宗はついに、天正十七年(1589)、蘆名氏攻略を目指して侵攻を開始した。(当時の蘆名氏当主は、蘆名義広佐竹義重の次男にあたる。蘆名氏、佐竹氏はともに、関白となっていた豊臣秀吉の事実上臣下となっていたため、蘆名氏を攻める政宗は、秀吉を敵に回すに等しい状況になるのは目に見えていた。政宗は、この時点でやや秀吉を侮っていたようだ。)政宗が、蘆名氏の支城を落としていき、圧迫を与えると、蘆名の重臣で猪苗代城主・猪苗代盛国が伊達家に寝返ってきた。これに、怒った蘆名義広は、猪苗代城を目指して進軍する。政宗も出撃し、摺上原で両軍激突することとなる。伊達軍2万3千、蘆名軍1万6千。始めは、正面から強風を受けた伊達軍は苦戦するが、徐々に風向きは変わり、今度は蘆名軍が正面から風を受けることとなる。こうなると伊達軍の猛攻に蘆名軍は耐え切れず、敗走し始める。伊達軍の追撃により蘆名軍は壊滅し、決戦翌日、義広は黒川城を捨て、実家の佐竹領に逃げ延びた(摺上原の戦い)。これにより、奥州の名家・蘆名氏は滅亡。黒川城に入った政宗は、勢いに乗って蘆名領を平定し、次いで二階堂氏も滅ぼし、日本を代表する大大名にのし上がる。政宗は家督を継いでわずか5年余、弱冠24歳で奥州南部の大部分を支配下に治めたことになる。

 しかし、政宗の栄華も長くは続かない。すでにこの頃、豊臣秀吉が日本のほとんどを平定し、秀吉に従ってないのは関東の北条氏政・氏直父子と政宗ぐらいであった。秀吉からしばしば上洛を促されていたが、政宗は関東進出をねらっていたため、これにはなかなか応じなかった。しかし、天正十八年(1590)に、秀吉は北条征伐に着手し、政宗は秀吉に小田原参陣を命じられる。つまり、秀吉の軍門に降れということであった。武功派である伊達成実は抗戦を唱えるが、参謀である片倉小十郎が参陣を強く薦めたため、政宗は迷いながらも小田原参陣を決める。しかし、出発直前に大事件が起こる。政宗が母・義姫(保春院)に毒を盛られ、一命をとりとめたものの、参陣がすぐにはできなくなる。政宗は、母の行動の原因を弟・小次郎にあるとして、小次郎を殺害した。その後、やっと政宗は小田原参陣を果たし、ついに秀吉の軍門に降る。秀吉は、政宗から旧蘆名領は取り上げたものの、本領は安堵した。そして、政宗は秀吉の奥州仕置後に起きた葛西・大崎一揆蒲生氏郷と共に平定するが、裏で画策していたと疑いをかけられる。これは、機転をきかしてうまく乗り切ったものの、岩出山(旧葛西、大崎領)へ転封される。

 慶長三年(1598)に秀吉が亡くなると、天下を狙う徳川家康と接近し、長女・五郎八姫と家康の六男・忠輝の婚約が成立する。そして、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、徳川家康率いる東軍につく。この時、家康は政宗に100万石のお墨付きを与え、味方につけた。戦が起こると政宗は、直江兼続率いる上杉軍に攻められていた最上義光に援軍を送ったが積極的に戦おうとはしなかった。さらに、裏で領土拡大を画策したり、関ヶ原の戦いが長引いて混乱が生じた場合には、天下さえも狙う考えであったようだ。結局、徳川家康率いる東軍が勝利すると、政宗はやっと全力で上杉攻略に乗り出す。しかし、戦後、家康は、政宗の行動に対する疑念などから100万石のお墨付きは反故にし、政宗が上杉から自力で獲得したわずか2万石の加増とした。この後も政宗は野望を抱き続けたとされ、戦国の生き残りとしてはまだ若かったため幕府から常に警戒される存在であった。

 慶長六年(1601)、仙台に移り、仙台城を築城し城下町の建設を始める。その後も江戸時代は平和であったため内政に力を入れ、新田開発、産業育成を行った。これは、後に大きな成果を生み、仙台藩は全国有数の穀倉地帯を有することとなる。また、政宗は家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣するなど海外貿易にも興味を示していたようだ。

 慶長十九年(1614)、元和元年(1615)の徳川家による豊臣征伐である大坂の陣に参陣。これが最期の戦働きとなり、以後、徳川幕府の体制も磐石になったため、天下取りの野望もあきらめざるをえなくなる。晩年、3代将軍・家光の時代まで仕え、家光からは多大な信頼を得て、幕府や他の大名からも一目置かれた。寛永13年(1636)5月、江戸で死去。享年70。



伊達家の家紋
竹に雀
祖父:伊達晴宗

父:伊達輝宗    母:義姫[保春院](最上義守の娘)

正室:愛姫(田村清顕の娘)

兄弟:伊達小次郎など

子:伊達秀宗(伊予・宇和島藩初代藩主)、伊達忠宗(陸奥・仙台藩第二代藩主)
   五郎八姫(松平忠輝の正室)など  

伊達政宗 関連年表
1567年(永禄十年) 伊達家十六代当主・輝宗の子として米沢城で生まれる。
1571年(元亀二年) 病気で右目を失う。
1572年(元亀三年) 虎哉宗乙禅師に弟子入りする。
1579年(天正七年) 愛姫(田村清顕娘)を娶る。
1581年(天正九年) 初陣を飾り、相馬氏と戦う。
1584年(天正十二年) 父・輝宗が隠居し、家督を継ぐ。
大内定綱が伊達家に降る。
1585年(天正十三年) 4月、大内定綱が伊達家に背き蘆名家側に付く。
8月、大内家の小手森城を攻撃し、撫で斬りを行う。
10月、畠山義継が父・輝宗を拉致。政宗は、義継もろとも輝宗も撃ち殺す。
11月、佐竹・蘆名を中心とする連合軍と戦う(人取橋の戦い)。
1586年(天正十四年) 二本松城の畠山氏を滅ぼす。
1588年(天正十六年) 2月、大崎氏に軍事介入するが失敗に終わる。
6月、佐竹・蘆名軍と郡山で戦う(郡山合戦)。
1589年(天正十七年) 6月、猪苗代盛国が伊達家に降る。
6月、摺上原の戦いで蘆名義広を破る。(蘆名氏滅亡)
1590年(天正十八年) 1月、豊臣秀吉より小田原参陣を命じられる。
4月、母・保春院に毒を盛られる。弟・小次郎を斬る。
5月、小田原参陣のため、会津を出発。
6月、豊臣秀吉に謁見する。旧蘆名領は没収される。
1591年(天正十九年) 2月、羽柴姓を許される。
9月、岩出山城に移る。
1592年(文禄元年) 秀吉の朝鮮出兵のため、肥前・名護屋城に向かう。
1593年(文禄二年) 朝鮮半島へ渡る。
1595年(文禄四年) 豊臣秀次謀反の関与を秀吉に疑われるが難を逃れる。
1598年(慶長三年) 豊臣秀吉没す。
1599年(慶長四年) 五郎八姫と松平忠輝(家康の六男)が婚約する。
1600年(慶長五年) 関ヶ原の戦いで東軍に味方し、上杉軍と戦う。
1601年(慶長六年) 居城を仙台城に移す。
1614年(慶長十九年) 大坂冬の陣に参戦する。
長男・秀宗が伊予・宇和島10万石の初代藩主になる。
1615年(元和元年) 大坂夏の陣に参戦する。豊臣家滅亡。
1616年(元和二年) 徳川家康没す。
松平忠輝が改易となる。
1623年(元和九年) 徳川家光が三代将軍になる。
1626年(寛永三年) 従三位権中納言に叙任される。
1632年(寛永九年) 徳川秀忠没す。
1636年(寛永十三年) 政宗、江戸にて死去。



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