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関ヶ原の戦い |
年月日 | 慶長五年(1600)九月十五日 |
場所 | 美濃国不破郡関ヶ原 |
東軍 | 対 | 西軍 |
徳川家康 | 総大将 | 石田三成 |
総大将の家紋 | ||
約88000 | 兵力 | 約85000 |
勝利 | 勝敗 | 敗北 |
徳川家康 30000 福島正則 6000 黒田長政、竹中重門 5400 細川忠興 5000 井伊直政 3600 松平忠吉 3000 本多忠勝 500 加藤嘉明 3000 藤堂高虎 2500 田中吉政 3000 寺沢広高 2400 筒井定次 2800 京極高知 3000 金森長近 1200 生駒一正 1800 古田重勝 1000 織田有楽 400 浅野幸長 6500 池田輝政 4500 山内一豊 2000 有馬豊氏 900 |
参戦武将 | 石田三成 6000 宇喜多秀家 17000 小西行長 6000 島津義弘 1500 大谷吉継 600 戸田重政、平塚為広(大谷隊寄騎) 1500 大谷吉治、木下頼継(ともに吉継の子) 3500 小早川秀秋(東軍へ内応) 15000 脇坂安治(東軍へ内応) 1000 朽木元網(東軍へ内応) 600 赤座直保(東軍へ内応) 600 小川祐忠(東軍へ内応) 2000 毛利秀元 15000 吉川広家(東軍に内通) 3000 安国寺恵瓊 1800 長宗我部盛親 6600 長束正家 1500 豊臣配下兵 2000 |
注:軍勢数には諸説有り |
開戦地 現在の標柱は小西行長の陣の側にあるが、 実際はもっと南の宇喜多軍陣地の水田地帯が開戦地である。 |
笹尾山から見た関ヶ原古戦場 正面に家康が最初に陣を張った桃配山が見える |
秀吉の死から関ヶ原の戦いまで |
慶長三年(1598)、豊臣秀吉が伏見城で死去。この時、秀頼わずか6歳。さらに、長年続く朝鮮出兵などのため、豊臣政権内には加藤清正、福島正則らを中心とした武断派と五奉行筆頭・石田三成の対立が表面化してきていた。その対立をうまく利用して、自らの野望を成し遂げようとしていたのが関東に255万石の領地をもっていた大大名・徳川家康である。家康は秀吉から政務代行を託されたことを利用して、豊臣政権内で秀吉時代の決まりごとを無視していき、縁組などで武断派を取り込んでいく。まだ家康に対抗できる唯一の人物である前田利家が在命中はよかったが、慶長四年(1599)三月に利家が病死してしまう。これにより豊臣政権の微妙なバランスが崩れ、たちまち三成は武断派七将に襲われ、結果的に失脚。家康の専横に対抗していた三成の失脚により、家康は意のままに政権を操るようになり勝手に諸大名に対して加増、転封なども行うようになる。さらに、まず利家の子・前田利長にあらぬ嫌疑かけ、討伐軍を編成。これは、利長が必死の弁明を行い、母・芳春院(まつ)を人質に出したことで中止される。次に標的にされたのが上杉景勝である。武門を誉れとする上杉家は、家康からの無理難題をはねのけ、決戦の決断をする。家康は、ただちに豊臣家の名の下で軍勢を集め上杉征伐に乗り出すのである。しかし、家康の真の目的は、この遠征で留守をねらって挙兵するであろうと思われていた三成で、一気に武力によって対抗勢力を一掃しようと目論んでいたのである。三成は三成で豊臣家の将来のため家康を除くことを考え、毛利輝元を総大将にし西国大名を中心に豊臣恩顧、反家康勢力を集め、家康と一大決戦する覚悟を決め挙兵した。 西軍諸将はまず約40000の大軍で、徳川家の鳥居元忠が守る伏見城を攻めたてたが、元忠率いる1800の城兵は玉砕覚悟で激しく抵抗。10日以上かけて何とか落城に至る。その後、西軍諸将は伊勢、美濃へ侵攻を開始する。 一方、家康は下野・小山で三成挙兵の報を耳にする。そして、従軍していた諸将を集め、三成ら西軍挙兵を伝え軍議を開いた。そして、福島正則、黒田長政、細川忠興ら豊臣恩顧の大名を味方につけ、さらに彼らを先発隊として東海道を進ませた。山内一豊ら東海道諸将は、家康に味方し城を提供したため東軍は難なく、福島正則の居城である尾張・清洲城まで到着。その後、福島正則、池田輝政らの活躍で西軍の重要拠点である岐阜城を攻略し、赤坂付近に陣取って家康の到着を待った。東軍の進撃の早さに後手を踏んでしまった三成は大垣城に入城し、伊勢攻略中の毛利勢や宇喜多秀家、北陸方面にいた大谷吉継らに大垣、関ヶ原方面への参集を要請。そして、東軍陣地の赤坂に家康が着陣すると三成ら西軍は関ヶ原へ進出。東軍も関ヶ原に向けて出陣した。 |
決戦地 石田三成の陣である笹尾山近くにあり、合戦最大の激戦が 繰り広げられた場所。 |
笹尾山の石田三成陣跡 西軍の実質指揮官である石田三成が陣を敷いた場所 |
関ヶ原の戦い |
慶長五年九月十五日早朝に東西両軍は関ヶ原に布陣を終え、濃霧が晴れるのを待っていた。そして、霧が晴れ始めた午前8時頃、井伊隊の宇喜多隊に向けての発砲により戦いの火蓋が切って落とされた。元々、先鋒をまかせられていた福島正則は井伊隊の抜け駆けに怒り、すかさず宇喜多隊に総攻撃を命じた。これを口火に、東西両軍の諸隊が激突を開始する。石田隊には、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らが殺到し、特に激戦となった。しかし、石田隊は島左近らの活躍、地形の助けもあって、善戦していた。また、宇喜多隊と福島隊も激戦を繰り広げ、押しつ押されつの攻防となった。西軍で戦闘に参加していたのは、石田隊、小西隊、宇喜多隊、大谷隊とその支隊だけながら、当初は西軍優勢で進んだ。しかし、三成が狼煙を上げても西軍が頼りとする毛利隊も小早川隊も動こうとしなかった。家康は、戦況が分かりにくい桃配山から前線の陣場野に本陣を移し、全軍を鼓舞したがなかなか戦況は変わらなかった。業を煮やした家康は、東軍へ裏切る予定ながらなかなか動かない小早川秀秋の陣に向かって鉄砲による威嚇射撃を行った。この効果はまもなく表れ、正午過ぎ、小早川隊は西軍の大谷吉継の陣に向け突撃を開始した。大谷吉継はある程度、小早川秀秋の裏切りを予想して備えていたため、当初は何とか持ちこたえていたが、小早川隊に備えて松尾山の麓に陣取っていた脇坂、朽木、小川、赤座ら四将も突如裏切り大谷隊に攻撃を加えてきた。これには、さすがの大谷諸隊も耐え切れず壊滅。大谷隊に属していた戸田重政、平塚為広は討死し、義継自身も敗北を悟り自刃。大谷隊の壊滅に続き小西隊、宇喜多隊も総崩れとなり、小西行長、宇喜多秀家は敗走していった。さすがに、石田三成は最後まで踏ん張ったが、東軍諸隊が殺到し、孤立無援となり石田隊も壊滅し三成は伊吹山中に落ちていった。最後まで、動かなかった島津義弘は、世に名高い「敵中突破」という奇策によって撤退を敢行し、大きな犠牲を出しながら撤退を成功させた。合戦自体は、家康率いる東軍の大勝利に終わり、以後、家康は天下の実権を握ることとなる。なお、戦死者は東西両軍で5千を超え、いかに激しい戦闘だったかを物語っている。 |
床机場・徳川家康最後陣跡 家康は桃配山から午前10時頃この地に陣を進めた。 そして、合戦最後までこの地で東軍を指揮し、 戦後は、敵方の首実検をした所でもある。 |
笹尾山頂上の石田三成陣跡 三成は、関ヶ原が一望できるこの地から西軍諸将に指示を出した。 |
関ヶ原の戦い 関連年表 |
慶長3年(1598)8月18日 | 豊臣秀吉、伏見城にて死去。 |
慶長4年(1599)1月10日 | 豊臣秀頼が伏見城から大坂城に移り、前田利家が後見役として随行する。 |
慶長4年(1599)閏3月3日 | 前田利家、大坂で死去。 加藤清正、福島正則ら七将に石田三成が襲撃されるが未遂に終わる。 |
慶長4年(1599)9月7日 | 徳川家康が伏見城から大坂城に移る。 |
慶長5年(1600)6月18日 | 家康、会津征伐のため伏見城を出発する。 |
慶長5年(1600)7月2日 | 家康、江戸城に到着する。 |
慶長5年(1600)7月11日 | 三成、佐和山城で大谷吉継に家康討伐を打ち明ける。 |
慶長5年(1600)7月16日 | 毛利輝元、大坂城に入る。 |
慶長5年(1600)7月19日 | 宇喜多秀家ら西軍諸将が徳川武将・鳥居元忠籠もる伏見城の攻撃を開始する。 |
慶長5年(1600)7月22日 | 小野木公郷ら西軍諸将が東軍の細川幽斎籠もる丹後・田辺城の攻撃を開始する。 |
慶長5年(1600)7月25日 | 小山軍議を行い、家康、三成を討つため西上を決定する。 |
慶長5年(1600)8月1日 | 西軍、伏見城を落とす。 |
慶長5年(1600)8月5日 | 家康、江戸城に帰着する。 |
慶長5年(1600)8月10日 | 三成、大垣城に入る。 |
慶長5年(1600)8月14日 | 福島正則、黒田長政ら東軍先発諸将、尾張・清洲城に到着する。 |
慶長5年(1600)8月23日 | 福島正則ら東軍諸将が西軍方・織田秀信籠もる岐阜城を落とし、美濃・赤坂に陣を置く。 |
慶長5年(1600)9月1日 | 家康、江戸城を出発する。 |
慶長5年(1600)9月2日 | 北陸にいた大谷吉継が関ヶ原西南の山中村宮上に布陣する。 |
慶長5年(1600)9月3日 | 宇喜多秀家が大垣城に入る。 |
慶長5年(1600)9月7日 | 伊勢方面にいた毛利秀元、吉川広家らが南宮山周辺に布陣する。 毛利元康、立花宗茂ら東軍に裏切った京極高次籠もる大津城の攻撃を開始する。 |
慶長5年(1600)9月13日 | 田辺城の細川幽斎が城を明け渡す。 |
慶長5年(1600)9月14日 | 家康、美濃・赤坂に着陣する。 島左近率いる西軍が杭瀬川の戦いで勝利する。 小早川秀秋が松尾山に布陣する。 大津城の京極高次が降伏。 午後7時頃、三成ら西軍が関ヶ原に向けて大垣城を出発。 |
慶長5年(1600)9月15日 | 午前0時頃、家康ら東軍が関ヶ原に向けて赤坂を出発。 午前5時頃、全西軍が関ヶ原に布陣完了。 午前6時頃、全東軍が関ヶ原に布陣完了。 午前8時頃、井伊隊の発砲により両軍の火蓋が切って落とされる。 午前10時頃、家康が本陣を陣場野に移す。 午後0時頃、小早川秀秋が西軍を裏切り大谷隊を攻撃。 午後1時頃、脇坂ら四将も西軍を裏切り、西軍総崩れとなる。 午後2時頃、石田隊壊滅し、三成、伊吹山中に落ちる。 島津隊、敵中突破を敢行する。 午後4時頃、東軍の圧勝で戦闘が終了する。 午後5時頃、家康、陣場野で西軍将士の首実検を行い、東軍諸将と引見する。 |
慶長5年(1600)9月17日 | 三成の居城・佐和山城落城する。 |
慶長5年(1600)9月19日 | 家康、草津に入る。 小西行長、伊吹山中で捕らえられる。 |
慶長5年(1600)9月21日 | 三成、近江・古橋村(滋賀県木之本町)で捕らえられる。 |
慶長5年(1600)9月23日 | 大垣城開城される。 安国寺恵瓊、京都で捕らえられる。 |
慶長5年(1600)9月24日 | 毛利輝元、大坂城二の丸から退去する。 |
慶長5年(1600)10月1日 | 家康、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊を京都六条河原で処刑する。 |
慶長8年(1603)2月12日 | 家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 |
南天満山・宇喜多秀家陣跡 宇喜多秀家は西軍最大の1万7千の兵を率いて 福島正則と激闘を繰り広げた。 |
小池・島津義弘陣跡 終始、動かなかった島津義弘だが、最後は東軍に囲まれ、 敵中突破によって戦場からの離脱に成功する。 |
小西行長陣跡 北天満山の麓に陣を敷き6千の兵を率いて奮闘した小西行長の陣跡 |
大谷吉継の墓 智将・大谷吉継が自刃した場所 |
月見の宮・福島正則陣跡 東軍の先鋒で宇喜多秀家軍と激闘を繰り広げた福島正則の陣跡 |
井伊直政・松平忠吉陣跡 家康四男・忠吉と徳川四天王の1人井伊直政の陣跡 |
平塚為広の碑 美濃・垂井1万2000石を領していた為広は、大谷吉継隊に加わり 勇戦したが討死。その戦いぶりは東軍諸将にも賞賛されたという。 |
藤堂高虎・京極高知陣跡 松尾山の小早川秀秋や松尾山麓に陣取る四将に備えた両隊だが、 秀秋らの裏切りにより大谷隊へ突入し撃破した。 |
一口メモ |
関ヶ原に実際、訪れてみると本当にこんな狭いところで15万近くの軍勢が戦ったのかと驚かされる。島津義弘の陣と小西行長の陣なんか本当にすぐ傍である。そしてやはり、西軍が陣取っている場所は守りに適していて、小早川秀秋の裏切りまでは倍近くの軍勢を相手に善戦していたことが納得である。 |
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