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加藤清正 (かとう きよまさ) 豊臣家家臣、加藤家当主(初代肥後熊本藩主) |
別名、改名、通称 | 夜叉丸、虎之助 | |
官位 | 従五位下主計頭、従五位上侍従、肥後守 | |
生没年 | 永禄五年(1562)~慶長十六年(1611) | |
墓所 | 熊本県熊本市西区花園 本妙寺 | |
ゆかりのお城 | 熊本城、名護屋城、江戸城、名古屋城、蔚山倭城 二条城、鳥取城、備中冠山城、宇土城、柳川城 |
加藤清正の生涯 |
加藤清正は、豊臣秀吉の子飼いの武将として成長し、賤ヶ岳の戦いでは賤ヶ岳七本槍の1人に数えられる活躍をみせる。その後も秀吉の家臣として順調に出世を重ね、肥後半国の領主となり、関ヶ原後は肥後一国52万石の領主となる。徳川の時代になっても豊臣家への忠誠心を失うことはなかったが大坂の陣前に病死する。名城・熊本城を築城するなど築城の名手としても知られる。 清正は永禄五年(1562)、愛知県愛知郡中村の土豪である加藤清忠の子として生まれる。清正の母・伊都と秀吉の母であるなか(大政所)が血縁関係だったこともあり、秀吉に幼少の頃から仕えた。清正は豪胆で体格にも優れ腕力も強かったため、譜代の家臣が少なかった秀吉に将来を嘱望され、秀吉、ねね夫婦にかわいがられた。天正四年(1576)に170石を与えられ、秀吉の中国攻めにも参加し、備中冠山城攻めで一番乗りするなど活躍した。 天正十年(1582)、織田信長が本能寺で倒れ、秀吉が明智光秀と激突した山崎の戦いに参加。翌年の賤ヶ岳の戦いでは、柴田方の将である山路正国(異説有り)を討ち取るなど大活躍を見せ、福島正則、加藤嘉明らとともに賤ヶ岳七本槍と称される。戦後3000石に加増され、その後も秀吉に従い各地を転戦し活躍する。その活躍が秀吉に認められ、天正十六年(1588)に肥後北半国19万5000石を与えられ、隈本城(熊本城)を居城とした。いきなりの大名への出世であったが、佐々成政が統治に失敗した肥後を、清正は手腕を発揮し見事に治めていく。特に治水工事、新田開発を積極的に行い、南蛮貿易など商業育成にも力を入れたため、清正の治世では肥後の国がとても豊かになったといわれる。 文禄元年(1592)から始まった文禄の役では、清正は二番隊主将を務め、鍋島直茂、相良頼房を副将に総勢約22800の軍勢を率い、朝鮮に渡った。一番隊の小西行長とともに先鋒を務め、別路で李氏朝鮮の首都・漢城を目指し先を競った。漢城攻略後も李氏朝鮮の二王子を生け捕りにし、さらにオランカイ(満州)あたりまで進軍するなど大活躍をみせ、その勇猛果敢な戦いぶりに朝鮮軍から大いに恐れられた。しかし、食糧不足、明軍の援軍や朝鮮義兵の立ち上がりなどで次第に日本軍自体が大苦戦に陥り、加藤軍も餓死者や凍死する者が相次ぎ相当な損害をこうむった。やがて、日本軍、明・朝鮮連合軍ともに和議を模索し、一時的に和議が成立するが、その和議の過程で清正は、石田三成、小西行長らと激しく対立するようになり関ヶ原の遠因ともなる。慶長の役でも清正は朝鮮に渡り奮闘をみせるが、秀吉の死により帰還する。 朝鮮帰還後、加藤清正、福島正則ら武断派と石田三成との対立はますます激しくなるが、前田利家がいたため何とかその衝突を抑えていた。しかし、慶長四年(1599)利家が病死した事により、歯止めが利かなくなり、清正は福島正則、黒田長政、浅野幸長ら六将とともに大坂の石田邸を襲撃したのである。この襲撃は事前に察知した三成が徳川家康を頼った事により失敗することとなる。この対立を利用して天下の覇権を握りたい家康は、豊臣政権でも非常に影響力のある清正との関係を重視したため、清正と家康は関係を深めていく。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、九州に残り、西軍の小西行長領を攻撃したり、黒田如水らとともに立花宗茂の柳川城を攻めるなど東軍・徳川方として活躍した。この働きが家康に認められ、小西行長領の南肥後が加増となり、肥後一国54万石の大大名となる。その後は、徳川家による天下普請である名古屋城の築城に携わるなどするが、江戸への行き帰りなどで大坂を通る場合は必ず豊臣秀頼に対してあいさつに寄るなど豊臣家への恩を忘れることはなかった。慶長十六年(1611)に二条城で行われた秀頼と家康の会見では、浅野幸長とともに秀頼の警固の役を勤めたが、その帰国途中に発病し熊本で没した。享年50。 徳川家による毒殺説などがあるが豊臣家にとって痛い死であった。その4年後、豊臣家は家康の手によって滅んでしまう。 |
加藤家家紋「蛇の目紋」 |
父:加藤清忠 母:伊都 子:加藤忠正、加藤忠広など 孫:加藤光広 |
加藤清正 関連年表 |
1562年(永禄五年) | 尾張の中村で加藤清忠の子として生まれる。 |
1571年(元亀二年)? | この頃より秀吉に仕えるようになる。 |
1576年(天正四年) | 秀吉より170石与えられる。 |
1582年(天正十年) | 備中・冠山城攻めで一番乗りを果たす。? 山崎の戦いに参戦する。 |
1583年(天正十一年) | 賤ヶ岳の戦いで七本槍に数えられる活躍により3000石に加増される。 |
1586年(天正十四年) | 九州征伐に従軍する。 |
1588年(天正十六年) | 肥後の北半分19万5000石を与えられ、大名となる。 |
1592年(文禄元年) | 文禄の役。二番隊主将として朝鮮半島に渡る。 |
1596年(慶長元年) | 秀吉の怒りを買い、一時的に本国に戻らされる。 |
1597年(慶長二年) | 再び、朝鮮半島に渡る。(慶長の役) |
1598年(慶長三年) | 秀吉が死去したことにより、朝鮮より帰国する。 |
1599年(慶長四年) | 福島正則、黒田長政らと石田三成を襲撃するが失敗する。 |
1600年(慶長五年) | 関ヶ原の戦い。九州で東軍として戦う。戦後、肥後一国54万石の領主となる。 |
1601年(慶長六年) | 熊本城の築城を始める。(1591年という説も) |
1607年(慶長十二年) | 熊本城が完成する。 |
1611年(慶長十六年) | 3月、二条城の会見で秀頼の警固をする。 6月、熊本城で没す。 |
名古屋市にある日蓮宗妙行寺 清正の生誕地といわれている |
妙行寺にある清正像 |
妙行寺にある清正誕生碑 |
名古屋城にある「清正公石曳きの像」 清正は名古屋城の天守閣の石垣などを担当した |
熊本城にある清正像 |
熊本城宇土櫓 |
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