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上杉謙信 (うえすぎ けんしん) 上杉家(長尾家)当主 |
別名、改名、通称 | 虎千代(幼名)、長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、越後の龍 | |
官位、役職 | 彈正少弼、関東管領 | |
生没年 | 享禄三年(1530)〜天正六年(1578) | |
墓所 | 新潟県上越市中門前 林泉寺 | |
ゆかりのお城 | 春日山城、栃尾城、七尾城、厩橋城、沼田城、小田原城、滝山城 |
上杉謙信の生涯 |
「越後の龍」、「軍神」と称された上杉謙信は、戦場では無類の強さを発揮し、戦国最強の武将と評価されている。甲斐の武田信玄との川中島での死闘は有名である。また、義を重んじたといわれ、関東管領として関東諸将の要請を受け北条氏とも度々、戦っている。その義理堅さから聖将ともいわれる。 享禄三年(1530)、謙信は越後守護代・長尾為景の子として誕生する。幼名は虎千代であった。7歳になると、林泉寺に入れられ、修行とともに、教育を受ける。この頃、父・為景は守護代として越後の実権を握っていたが内乱が絶えず、越後はまだ不安定な状況であった。そんな中、為景は、天文五年(1536)に病死してしまう。長男・晴景が跡を継ぐが、父・為景でさえ苦戦した越後国内の統制に苦労することとなる。そんな中、謙信は15歳で初陣を飾り、17歳になると長尾家に背いた黒田秀忠を攻め滅ぼしている。これにより、謙信の勇名は知れ渡り、国人や家臣から期待され将来を嘱望されるようになる。その後、兄・晴景とは一悶着あったと予想されるが、天文十七年(1548)晴景は結局、隠居し謙信に家督を譲る。この時、謙信は栃尾城から春日山城へ移っている。 家督を継いだ謙信であったが、まだまだ越後国内は統一されておらず逆らうものも少なからずいた。その中の有力な国人に長尾政景がいた。謙信と長尾政景の抗争はしばらく続くが、次第に謙信方が有利となり政景も謙信に服従する。これにより、越後国内はほぼ統一される。 天文二十一年(1552)になると、関東管領・上杉憲政が北条氏康の侵略により謙信を頼って越後へ逃れてきた。憲政は、謙信に北条氏討伐のため関東出兵を頼むが、北信濃の豪族(親戚筋にあたる高梨政頼や小笠原長時、村上義清)も甲斐の武田信玄に侵略され、謙信を頼ってきていた。謙信としては、防御の観点からも本拠・春日山城の近くである北信濃を優先せざるえず、まず武田信玄と対決することとなる。世に名高い5回にわたる川中島の戦いの1回目の戦いが天文二十二年(1553)に行われるが大規模な合戦は行われず、引き上げることとなる。この年には上洛も果たし、天皇と将軍・足利義輝に謁見している。 弘治二年(1556)、謙信は突然、当主を辞め出家しようとする。越後国内の争いに嫌気がさしたなどといわれるが原因は不明である。当然、長尾政景(この頃には政景も越後をまとめれるのは謙信しかいないと思っていたようだ)らを中心として必死に説得し、謙信は出家を撤回する。 永禄三年(1560)になると、越中に出陣し神保長職を打ち破り、その年ついに上杉憲政を擁して関東へ出陣する。この時、三国峠を超えるがこの後10回以上もこの峠を越える事になろうとは謙信自身も想像していなかったに違いない。この年の関東出兵は、北条方の城を次々落としていき、さらに上杉憲政を擁した謙信の元にも続々と関東諸将が集まり、ほぼ順調に遠征が進んでいく。謙信は関東で越年し、永禄四年(1561)三月には、北条氏康の本拠・小田原城を取り囲む。その数、10万を超えたといわれている。しかし、小田原城は戦国時代随一の堅城であり、謙信率いる関東連合軍は寄せ集めで、さらに大軍で補給もなかなか困難であった。よって、結局、小田原城は落とせず、1ヶ月ほどで小田原から引き上げる。この時、鎌倉に立ち寄り鶴岡八幡宮にて、謙信は上杉憲政より上杉家と関東管領職を譲り受ける。これにより、名も長尾景虎から上杉政虎と変え、翌年には輝虎と名乗るようになる。しかし、関東管領職を継いだことにより、これ以後、慢性的に関東の北条氏と甲信の武田氏という二方面の強敵に対して戦いを展開することとなる。 この後も武田信玄とは、第4次川中島の戦いで激闘を繰り広げたものの、結局、決着がつかず、北信濃の豪族の旧領回復はならなかった。さらに、北条氏とも関東に出兵して何度も争うものの、あまり領土拡大にはつながらなかった。謙信が関東に出兵した際には、関東の豪族は上杉方に与するものの、謙信が引き返すと再び北条氏の圧力が加わり、北条方に寝返る豪族が後を絶たなかった(この当時の豪族は、生き残るためには状況に応じて強い者に味方することは、ごく普通のことであった)。そのため、なかなか関東出兵も度重なる出兵の割りに成果に乏しいものとなる。戦にはめっぽう強い謙信に対し北条氏康・氏政父子は、したたかで巧みに立ち回り逆に関東での領土を広げていく。 元亀四年(1573)、甲斐の武田信玄が没すると武田氏への脅威が薄らぎ、信玄が扇動していた越中一向一揆勢を撃破することに成功する。これにより西上の道が開けていく。その後も関東へ出兵するが、天正六年(1576)になると織田信長に苦しめられていた一向一揆を指揮する本願寺顕如と和睦する。これを期に越中、能登、加賀へ進出し、翌年には、北陸きっての堅城である能登・七尾城(畠山氏・本拠)を苦労しながらも計略によって落城させる。その勢いに乗って、七尾城の後詰に来ていた柴田勝家を総大将とする織田軍を加賀・手取川で打ち破る(手取川の戦い)。しかし、天正六年(1578)、謙信は関東出兵の準備を進めていた(上洛説もあり)が春日山城内で急死する。享年49歳。 この当時、織田信長に唯一対抗できる存在だった謙信の死は、反信長勢にとって落胆は大きかったと思われる。信長もまた、武田信玄同様、謙信もひどく恐れていたといわれる。 謙信には実子がいない上、跡継ぎを決めず急死したため、共に養子である上杉景虎(北条氏康の七男)と上杉景勝(長尾政景の次男)の間で相続争い(御館の乱)が勃発し、謙信時代に比べ上杉家の勢力は衰えていくこととなる。 |
上杉謙信の逸話 |
上杉家の家紋 「竹に雀」 |
父:長尾為景 母:青岩院 兄弟:長尾晴景、仙桃院(長尾政景室) 養子:上杉景勝(長尾政景の次男)、上杉景虎(北条氏康の七男) |
上杉謙信 関連年表 |
1530年(享禄三年) | 越後守護代・長尾為景の子として春日山城にて誕生。 |
1536年(天文五年) | 父・為景死去。兄・晴景が家督を継ぐ。 |
1543年(天文十二年) | 元服し、長尾景虎と名乗るようになり、栃尾城へ入る。 |
1546年(天文十五年) | 黒滝城主・黒田秀忠を攻め滅ぼす。 |
1548年(天文十七年) | 兄・晴景が隠居し、家督を継ぎ春日山城に入る。 |
1551年(天文二十年) | 坂戸城主・長尾政景を服従させる。 |
1552年(天文二十一年) | 北条氏の攻撃を受けた関東管領・上杉憲政が謙信を頼って越後へ逃れてくる。 |
1553年(天文二十二年) | 第1回川中島の戦いで武田信玄と対峙する。 上洛し、後奈良天皇と将軍・足利義輝に謁見する。 |
1560年(永禄三年) | 3月、越中に出陣し、神保長職を破る。 5月、三国峠を越え関東へ出陣する。 上野・厩橋城で越年。 |
1561年(永禄四年) | 3月、北条氏康本拠・小田原城を包囲。 鶴岡八幡宮で関東管領に就任。 8月、第4回川中島の戦いで武田信繁らを討ち取るも被害甚大で引き上げる。 |
1562年(永禄五年) | 上野・館林城、下野・唐沢山城を攻略。 |
1563年(永禄六年) | 武蔵・騎西城、下野・小山城を攻略。 |
1564年(永禄七年) | 常陸・小田城、下野・唐沢山城を攻略。 第5回川中島の戦い。 |
1566年(永禄九年) | 常陸・小田城、下総・白井城を攻略。 |
1567年(永禄十年) | 下野・唐沢山城を攻略。 |
1568年(永禄十一年) | 椎名康胤討伐のため越中出陣。 本庄繁長が謀反するも攻めて降伏させる。 |
1569年(永禄十二年) | 椎名康胤討伐のため越中出陣。 北条氏康と和睦する。 |
1570年(元亀元年) | 下野・唐沢山城を攻略 |
1571年(元亀二年) | 越中に出陣し、椎名康胤の富山城を攻略。 北条氏康死去。 |
1572年(元亀三年) | 北条氏政が武田信玄と和睦し謙信と敵対するようになる。 一向一揆勢と戦い、富山城を攻略。 |
1573年(天正元年) | 武田信玄死去。 越中に出陣し、越中をほぼ平定する。 |
1574年(天正二年) | 関東へ出陣し、北条氏政軍と戦う。 |
1576年(天正四年) | 本願寺顕如と和睦し、越中、能登、加賀へ進出する。 能登・七尾城を包囲するが攻めきれず翌年3月退却する。 |
1577年(天正五年) | 9月、能登・七尾城を攻略。 10月、加賀・末森城を攻略。手取川の戦いで柴田勝家を総大将とする織田軍を打ち破る。 |
1578年(天正六年) | 春日山城内で死去。享年49歳。 |
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