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北条氏康 (ほうじょう うじやす) 北条家三代目当主 |
別名、改名、通称 | 伊豆千代丸(幼名)、新九郎、太清軒 | |
官位、役職 | 相模守、左京大夫 | |
生没年 | 永正十二年(1515)~元亀二年(1571) | |
墓所 | 神奈川県足柄下郡 早雲寺 | |
ゆかりのお城 | 小田原城、河越城、国分台城 |
北条氏康の生涯 |
北条氏康は北条早雲の孫にあたり、早雲、氏綱の意志を受け継いで関東に覇を唱えた。武田信玄や上杉謙信、今川義元などとも互角に渡り合い、北条氏の関東での地位を不動のものする。また政治手腕にも優れ、税制体系の整備など領国の支配体制を強固なものとした。文武に優れた戦国時代を代表する名将の一人である。 氏康は関東北条氏2代目・北条氏綱の嫡男として、永正十二年(1515)に小田原城で生まれる。初陣は十六歳の時で、武蔵・小沢原の戦いにおいて扇谷・上杉朝興の軍を撃破する。天文十年(1541)に父・氏綱が亡くなり、氏康は二十七歳でその跡を継ぎ北条氏3代目当主の座に就くこととなる。 家督を継いだ氏康にいきなり試練が訪れる。氏綱が亡くなったのを好機と北条氏の台頭に長年苦しめられていた扇谷・上杉朝定(朝興の子)と関東管領である山内・上杉憲政が手を組み、さらには古河公方・足利晴氏(氏康の妹婿)までもこれに加わり挙兵したのである。この頃、氏康は駿河の今川義元とも領土争いを抱えており、まさに四面楚歌の状態であった。両上杉、足利連合軍約8万(6万5000とも)の大軍に狙われたのが、北条氏の武蔵攻略の重要拠点・河越城である。氏康もこの城を重要視しており、北条氏随一の勇将で地黄八幡の異名で周辺勢力に恐れられていた北条綱成を配置していた。綱成は、わずか3000余の城兵とともに約半年籠城。その間に氏康は今川義元と和睦し、いろいろと策をめぐらし天文十五年(1546)四月二十日深夜、ついに約8000の兵で山内・扇谷両上杉軍に夜襲を仕掛ける。さらに、これに呼応して城内から綱成も打って出て足利軍に突入。不意を衝かれた山内・扇谷上杉・足利連合軍は大混乱を起こし、将兵たちは次々と逃走していき、北条軍の大勝利となる(河越夜戦)。この合戦で朝定が戦死し扇谷上杉氏は事実上滅亡、山内上杉憲政と足利晴氏はそれぞれ何とか自国領土に逃げ延びるという連合軍にとっては惨憺たる結果となり、関東一円に強大な勢力を誇った両上杉家と足利家の勢力は急激に衰えた。氏康はさらに上杉憲政を圧迫し続け、天文二十一年(1552)に憲政の居城である上野・平井城を落とした。のちに憲政は長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に逃れたため、山内上杉氏も事実上滅亡する。またその年に古川公方・足利晴氏を廃し、妹・芳春院殿の子である足利義氏を古川公方の地位につけ、外戚として氏康は関東一円の国衆に影響力を強めようとした。 天文二十三年(1554)には、長年対立していた駿河の今川義元、甲斐の武田信玄と三国同盟を成立させる。これにより関東攻略に専念できるようになり、里見氏や宇都宮氏、佐竹氏などと戦いを繰り広げ、勢力を拡大していく。永禄二年(1559)、領国を襲った大飢饉の発生をきっかけに家督を嫡子の氏政に譲り隠居するが、その後も実権は保持し続けた。永禄三年(1560)になると上杉憲政から関東管領職を譲り受けた上杉謙信が北条氏打倒のため関東侵攻を始める。上杉軍の勢いはすさまじく次々と北条方の城を落としていき、関東諸将も続々と上杉軍のもとに馳せ参じその軍勢の数は10万以上になったといわれる。謙信率いる関東連合軍は南下を続け、永禄四年(1561)三月にはついに北条氏の居城である小田原城を取り囲んだ。さすがの氏康も籠城するしか手がなかったが、城を堅固にし武器弾薬・食料を十分に備え守りを万全にした。氏康は当然、10万を超える関東連合軍の弱点である食料の確保の難しさと寄せ集めであるため連帯感の薄さを見抜いており、長期籠城を選んだのである。当然これだけの大軍で長期帯陣は難しく、謙信は一ヶ月ほどで囲みを解き退却を始める。謙信が帰国した後、氏康は反撃を開始し勢力を回復。さらに北関東に勢力を拡大していった。 永禄十一年(1568)になると、甲斐の武田信玄が駿河の今川領に侵攻したため三国同盟が破綻する。北条氏は今川氏真支援の立場をとって信玄と対立するようになる。これに伴い氏康は上杉謙信と和議を結ぶが、これに対して信玄は永禄十二年(1569)小田原城に向けて攻撃を開始する。しかしこれも謙信の侵攻の時と同様に難攻不落の小田原城に籠もり防ぎきる。その2年後の元亀二年(1571)、氏康は小田原城にて生涯を閉じる。享年57。 遺言として氏政に「謙信と手を切り、信玄と再び結ぶように」と言ったといわれている。 また、氏康には顔面に向こう傷二箇所、身体に刀傷七箇所あり、敵に背を向けて受けた後ろ傷はなかったといわれ、その猛将ぶりがうかがいしれる。北条氏では前面に受けた傷は「氏康傷」と呼び誉れとした。 |
北条家の家紋 「三つ鱗、北条鱗」 |
祖父:北条早雲 父:北条氏綱 母:養珠院 正室:瑞渓院(今川氏親の娘) 兄弟:北条為昌、北条氏堯、芳春院殿(足利晴氏室)、大頂院殿(北条綱成室)ほか 子:北条氏政、北条氏照、北条氏邦、北条氏規、上杉景虎、北条氏忠、北条氏光ほか 孫:北条氏直、北条氏房ほか |
北条氏康 関連年表 |
1515年(永正十二年) | 相模の戦国大名・北条氏綱の長男として小田原城に生まれる。 |
1530年(享禄三年) | 扇谷・上杉朝興と武蔵・小原沢で戦い、初陣を飾る。(小沢原の戦い) |
1538年(天文七年) | 父・氏綱に従い、第一次国府台合戦に参戦し勝利する。 |
1541年(天文十年) | 父・氏綱が死去し、家督を継ぐ。 |
1545年(天文十四年) | 今川義元が北条領であった駿河・河東に侵攻してきたため出兵する。 |
1546年(天文十五年) | 河越で山内・扇谷両上杉・足利連合軍を撃破する。(河越夜戦) |
1548年(天文十七年) | 武蔵・岩付城主である太田資正を攻め降す。 |
1552年(天文二十一年) | 山内・上杉憲政を攻め、憲政は居城である上野・平井城から逃亡する。 |
1554年(天文二十三年) | 今川義元・武田信玄と甲相駿三国同盟を結ぶ。 古川城の足利晴氏を攻め、幽閉する。 |
1556年(弘治二年) | 北条水軍が里見義堯率いる水軍に敗れる。 |
1557年(弘治三年) | 下野の宇都宮広綱や常陸の佐竹義昭らと戦う。 |
1559年(永禄二年) | 氏政に家督を譲る。 |
1560年(永禄三年) | 今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれる。 里見義堯の本拠である上総・久留里城を攻める。 |
1561年(永禄四年) | 上杉謙信率いる関東連合軍に小田原城を攻められる。 |
1564年(永禄七年) | 里見義弘率いる里見軍に国府台で勝利する。(第二次国府台合戦) 武蔵・岩付城主である太田資正を追放する。 |
1568年(永禄十一年) | 武田信玄が駿河の今川領に侵攻し、三国同盟が破綻する。 |
1569年(永禄十二年) | 上杉謙信と和睦する。 武田信玄に小田原城を攻められる。 |
1571年(元亀二年) | 小田原城にて死去。享年57。 |
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