備中高松城
(びっちゅうたかまつじょう)

続日本百名城(171)、国史跡
場所 備中国
岡山県岡山市北区高松
築城者 石川久式
築城年 永禄年間(1558〜1570)
主な城主 清水宗治、石川久式、花房正成
主な遺構 曲輪、堀、水攻築堤跡など

歴史背景
 備中高松城は永禄年間(1558〜1570)頃に、幸山城主・石川久式(いしかわひさのり)が築いた。しかし、久式は備中兵乱により、備中松山城主の義兄・三村元親とともに毛利軍に敗れ自害。久式没後は、備中兵乱で毛利氏に従った清水宗治(石川氏の女婿)が城主となる。宗治は、毛利氏で山陽方面を担当する小早川隆景の配下となり信頼を得ていく。

 天正五年(1577)に織田信長羽柴秀吉を中国地方攻めを命じて以降、秀吉は次々と毛利氏の勢力圏を侵食していった。さらに備前を中心に勢力を張っていた宇喜多直家が毛利陣営から織田陣営に鞍替えしたため、備中が織田軍と毛利軍の最前線となる。毛利氏は、備中高松城を中心に宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・松島城・庭瀬城を「境目七城」としてこの防衛ラインを守ろうとした。

 天正十年(1582)になると、秀吉は3万もの大軍を率いて備中南東部に侵入し、毛利方の諸城を攻略しつつ4月には備中高松城を取り囲んだ。高松城を守る清水宗治は農民らを含む5000人で籠城し、毛利本隊の援軍を待つという作戦に出る。当初、秀吉は備中一国を与えるという条件で宗治を籠絡しようとしたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。これにより秀吉軍は、高松城に攻めかかったが、周辺の沼地を巧みに利用した守りに手を焼き、思うように戦果が上がらなかった。その状況に秀吉の軍師・黒田官兵衛は水攻めという奇策を考案し、秀吉もその案を用いた。秀吉はもともと土木工事が得意だったが、高さ7m、3000mにも及ぶ堤をわずか12日間で完成させたといわれる。秀吉軍は大雨が降って増水した足守川をせき止め、築堤内に大量の水を流し込み、水面との比高がわずか4mしかなかった高松城をたちまちに水没させた。本丸周辺は完全に水没し、城兵は狭い場所に密集せざるを得ない状況となるが、秀吉軍もこれにより積極的に攻めにくくなり持久策を取るようになる。一方毛利軍も輝元自身に加え吉川元春、小早川隆景など主力が援軍に駆けつけるが、水攻めでできた湖面のせいか、積極的に秀吉軍に対して攻勢に出ることはなかった。

 そして、こう着状態が続く中、起きた事件が本能寺の変である。この大事件をいち早く知った秀吉は情報封鎖を厳重に行い、毛利方が信長の死を知る前に毛利方に講和をもちかけた。その講和条件で領土の境界に関しては毛利家としてまだ納得のいくものだったが、清水宗治の切腹に関しては小早川隆景が承知しなかった。しかし、清水宗治は城兵の命が助かり、主家のためになるのならと潔く切腹を受け入れる。宗治の切腹を見届けると秀吉軍はすぐさま撤退を始め、すぐさま上方に向かった。秀吉軍の撤退が完了した後、毛利軍も本能寺の変の情報を得て、吉川元春などは追撃を主張したが小早川隆景の反対などもあり追撃は断念することとなる。

 高松城の攻防戦後は宇喜多秀家領となり家老の花房正成が入城し、江戸時代初期も本丸が陣屋として使用された。



本丸跡

沼地(蓮池)が復元されている

宗治蓮
沼地の復元とともに蓮も400年ぶりに自生した。

二の丸跡付近

城について
 備中高松城は秀吉による日本史上稀に見る水攻めの舞台として名高いが、水攻め当時の石垣や土塁などの遺構は残っていない。しかし、城跡は城址公園として整備されており、往時の雰囲気を感じることができる。実際に現地に行くといかにも、昔はこのあたりは深田や沼沢に囲まれた低湿地だったのだろうというのは容易に想像できる。城の縄張りは本丸部分の位置こそ正確に復元されているが、当時とはまったく異なっているようだ。本丸には清水宗治の首塚があり、少し離れた場所には高松城水攻め史跡公園が整備され蛙ヶ鼻築堤跡が残っている。



清水宗治の首塚
持宝院跡にあった首塚は、明治43年頃に本丸跡に移設された。 

史蹟清水宗治自刃跡

資料館の中にある清水宗治像
宗治の潔い最期に敵方の秀吉からも「武士の鑑」と評された。

本丸跡にある宗治の辞世の句
浮世をば 今こそ渡れ 武士の
名を高松の 苔に残して

資料館入口にある清水宗治陶像

左奥に見えるのが新しくなった高松城址公園資料館
高松城の資料や高松一帯から出土された遺物などが
展示されている。見学無料。

旧高松城址公園資料館

史蹟舟橋
3方を堀に囲まれた城の南手口にあった細い道を開戦直前に
八反堀を堀り外濠とした。そこへ出撃の際は舟を並べて舟橋として
利用し、退却した後は舟を撤去出来る仕組みになっていた。

高松城水攻め史跡公園
蛙ケ鼻築堤跡は史跡公園として整備されている。

発掘跡
木杭や土俵の痕跡なども確認された。

蛙ヶ鼻築堤跡(国指定史跡)
秀吉は軍師・黒田官兵衛の策を用い、約3000m堤防を
わずか12日間で完成させたといわれる。

別角度からの築堤跡

水攻め築堤跡碑

高松城水攻め水取入れ口遺跡
羽柴軍は高松城の西側を流れる足守川から水を流入された。

副堤の北端
秀吉はこの付近から現在の足守駅南まで全長400mの副堤を築いた


備中高松城水攻め史蹟案内図(現地案内板より)

備中高松城水攻め羽柴軍・毛利軍配置図(現地案内板より)

備中高松城 関連年表
1558〜1570年
(永禄年間)
石川久式が高松城を築城する。
1565年(永禄八年) 清水宗治が城主になる。
1574年(天正二年) 宗治、毛利氏に属する。
1582年(永禄十年) 4月、秀吉軍が高松城を包囲する。
5月、秀吉軍、築堤を完成させ高松城を水攻めに孤城とする。
6月2日、本能寺の変
6月4日、清水宗治切腹
6月13日、秀吉、山崎の戦いで明智光秀に勝利する。


備中高松城跡 周辺図 スポンサーリンク
駐車場:高松城址公園駐車場(無料・約30台)
最寄り駅:JR桃太郎線「備中高松駅」

訪問年月:
2005年9月、2023年7月



備中高松城 御城印

続日本100名城スタンプ
171備中高松城
 御城印販売場所  スタンプ設置場所
 備中高松城址資料館 
(2023年6月リニューアルオープン)



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