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大和郡山城 (やまとこおりやまじょう) 別名:犬伏城 奈良県指定史跡、続日本百名城(165) |
場所 | 大和国 奈良県大和郡山市城内町 |
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築城者 | 筒井順慶 | |
築城年 | 天正八年(1580年) | |
主な城主 | 筒井順慶・定次、豊臣秀長・秀保、増田長盛 水野勝成、本多政勝など |
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主な遺構 | 天守台、石垣、堀、曲輪 復元:追手門、向隅櫓、多聞櫓 |
歴史背景 |
明応年間(1492〜1501)頃に郡山衆と呼ばれる土豪・小田切氏によって構えられた館が郡山城の起源といわれている。 天正五年(1577)、織田信長は裏切った信貴山城の松永久秀を滅ぼし、城攻めの先鋒を務め功績のあった筒井順慶に大和一国を与える。そして、天正八年(1580)、順慶は郡山城の築城を開始し居城と定める。順慶が死去した後、養子の定次が跡を継ぐが豊臣秀吉によって天正十三年(1585)、伊賀・上野に転封される。 代わりに秀吉の弟である豊臣秀長が大和・紀伊・和泉三国100万石の領主として、郡山城に入城する。そして、100万石の城にふさわしい大規模な城の建築を開始し、城域、城下町共に大幅に拡張された。また、城下町はそれにともなって大いに発展することとなる。天正十九年(1591)に秀長が死去すると秀長の甥である秀保が跡を継ぐが、文禄四年(1595)その秀保もわずか17歳で死去し、大和豊臣家は断絶する。 その後は、五奉行の1人である増田長盛が22万石の領主として入城する。長盛によって、未完成であった外郭部も完成し、郡山城は惣構えが構築された巨大な城域をもつ城となる。しかし、長盛は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、徳川家康に所領を没収され高野山に追放される。 徳川家の領地となり、郡山城は破壊され、建物のほとんどは伏見城に移築される。そして、郡山の地は代官・大久保長安などが管理する事となる。そして、一時荒廃していた郡山城に元和元年(1615)、大坂夏の陣で功績のあった水野勝成が6万石の領主として入城する。幕府の協力を得て城の修築を行うが、勝成は元和五年(1619)、備後・福山に転封となり、代わって摂津・大坂より松平忠明が入封。以後、本多-松平-本多家を経て、柳沢家15万石が幕末まで続いた。 |
向隅櫓(復元) |
向隅櫓と追手門 |
追手門と多聞櫓(復元) |
追手東隅櫓(復元) |
城について |
郡山城は、現在、向隅櫓、追手門、追手東隅櫓、多聞櫓が復元されている。秀長時代には100万石の領主の城として、それにふさわしい天守や櫓群が建ち、城域も25万平方メートルに及ぶ大規模なものだった。現在は内郭部に石垣と堀が残るだけだが、高石垣や堀の深さでその規模を推し量ることが出来る。これほどの大城郭の建設に石垣に使う石材の供給が間に合わず、付近の寺院から石地蔵や庭石、礎石、五輪塔などが集められ、それが多く使われることとなる。その1つであるさかさ地蔵が現在でも残っている。また、城建設のために、天正十五年(1587)に紀州根来寺の大門を郡山に運んで門とし、春日神社の水谷川から大石を切り出して郡山に運んだ。 |
二の丸と三の丸を隔てる水堀 |
秀長時代に築造された本丸の石垣 |
内側から見た追手門と多聞櫓 |
本丸の石垣 |
水堀 |
天守台 |
天守台遠景 少し木々に覆われて分かりにくいが高石垣の奥に 天守台が存在する |
さかさ地蔵 築城時に多くの石地蔵や庭石が集められた。 |
本丸の柳沢神社入口 |
本丸にある柳沢神社 5代将軍・綱吉に仕えて柳沢家を 15万石の大名にまでした柳沢吉保を祀る。 |
大和郡山城 関連年表 |
1580年(天正八年) | 筒井順慶が郡山城の築城を開始する。 |
1584年(天正十二年) | 順慶死去。養子の定次が跡を継ぐ。 |
1585年(天正十三年) | 定次、伊賀上野へ転封。豊臣秀長が100万石の領主として入城。 |
1591年(天正十九年) | 秀長死去。養子の秀保が跡を継ぐ。 |
1595年(文禄四年) | 秀保、吉野で不慮の死を遂げ大和豊臣家断絶。増田長盛が22万石の領主として入城。 |
1600年(慶長五年) | 関ヶ原の戦いで西軍に与したため、増田家の領地は没収される。 |
1615年(元和元年) | 大坂の夏の陣で功績のあった水野勝成が6万石の領主として入城する。 |
1619年(元和五年) | 勝成、転封となり松平忠明が入城する。 |
本多家、松平家、本多家、柳沢家と城主を代え、明治を迎える。 |
大和郡山城 周辺地図 | スポンサーリンク |
駐車場:追手門前の駐車場(無料・数台) 最寄り駅:近鉄橿原線「郡山駅」 訪問年月:2007年5月 |
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