広島城
(ひろしまじょう)
別名:鯉城、在間城
国史跡、日本100名城(73番)
場所 安芸国
広島県広島市中区墓町
築城者 毛利輝元
築城年 天正十七年(1589年)
主な城主 毛利輝元、福島正則、浅野長晟など
主な遺構 復元大天守
二の丸表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓(すべて復元)
ほかに石垣、水堀、本丸、二の丸など

歴史背景
  広島城は、中国地方の雄・毛利元就の孫である毛利輝元が築いた平城である。毛利氏は、元々、山城である吉田郡山城を居城にしていたが、豊臣秀吉による天下統一が目前となり、その政権も磐石となりつつあったため、輝元は120万石の太守に恥じない巨大な城の築城を天正十七年(1589)に開始する。治世の時代に移り、山城は時代遅れとなり、城下町や領国の発展には平城が適していた。なお、築城には、大坂城や聚楽第を参考にしたといわれる。広島城は規模も大坂城に匹敵し、毛利氏120万石を象徴する大規模な城となる。しかし、慶長五年(1600)に起きた関ヶ原の戦いで輝元が敗れた西軍の総大将という立場だったため、徳川家康より大幅な減封を言い渡され、毛利氏は中国地方9カ国120万石から周防・長門2カ国37万石に転落し、萩城に移ることとなる。

 かわりに入城してきたのが、東軍で活躍した福島正則で安芸・備後の約50万石を領した。正則は、城の改修を行い、城下に西国街道を通し出雲・石見街道を整備するなどして、街道沿いの町人町の拡大させ、城下町の発展に寄与した。しかし、その正則も元和五年(1619)、洪水による広島城の無断修築を幕府に咎められ所領没収となってしまう。

 正則の後には、大坂の陣で功績のあった浅野長晟(浅野長政の次男)が紀伊和歌山約37万石から安芸・備後半国の約42万石の領主として入城した。その後も浅野氏は幕末まで12代にわたって、広島城を居城とし、明治を迎えることとなる。



大天守(復元)

城について
 広島城は、太田川河口の三角州に築かれた典型的な平城である。江戸時代には、内堀・中堀・外堀の3重の堀をめぐらせ、大田川を天然の堀とし、広大な敷地でした。その規模は、大坂城を凌ぐほどだったともいわれる。現在は、内堀とそれに囲まれた本丸・二の丸のみが残され、国の史跡に指定されている。

 江戸時代から残っていた建造物は天守閣、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸平櫓・多門櫓・太鼓櫓などで、天守閣は昭和6年に国宝に指定されている。しかし、昭和20年8月アメリカ軍の原爆投下により貴重な天守閣をはじめ、ほとんどの建造物は残念ながら破壊された。
 
 戦後の昭和33年に天守閣がコンクリート造りで、平成6年までには表御門・御門橋・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が復元された。天守閣は五重五階の大天守のみが復元されているが、明治維新までは三重三階の東小天守・南小天守を渡り櫓で連結した壮大な城だった。しかし大天守だけでも内堀の外側から見ると壮大な規模を誇った往時の広島城の姿を感じさせてくれる。



二の丸表御門・御門橋

左から平櫓・多聞櫓・太鼓櫓

右から太鼓櫓・多聞櫓・平櫓

太鼓櫓

内側から見た多聞櫓

二の丸

二の丸の石垣上

内堀

広大な内堀

天主閣から見た内堀

天主閣から見た本丸、二の丸

天主閣礎石

広島城天守閣跡碑

広島大本営跡

本丸

広島城関連年表
1589年(天正十七年) 毛利輝元が広島に築城を開始する。
1591年(天正十九年) 輝元、広島城に入城する。
1599年(慶長四年)頃 広島城、完成する。
1600年(慶長五年) 輝元、長門・周防に転封。
福島正則が関ヶ原の功により安芸・備後の領主となり、広島城に入城する。
1619年(元和五年) 正則、城の無断修築で幕府より所領を没収される。
浅野長晟が紀伊和歌山から安芸・備後半国の領主となり、広島城に入城する。


広島城 周辺地図 スポンサーリンク
駐車場:広島市中央駐車場(有料・406台)
最寄り駅:JR「広島駅」から路面電車「紙屋町東」
       又は「紙屋町西」
訪問年月:2008年8月、2023年8月



広島城 御城印


日本100名城スタンプ
73広島城


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