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三石城
(みついしじょう)
岡山県指定史跡
場所 備前国
岡山県備前市三石
築城者 伊東大和二郎
築城年 元弘三年/正慶二年(1333)
主な城主 浦上宗隆、浦上村宗、伊東氏
主な遺構 石垣、堀切、曲輪、土塁、井戸、大手門跡

歴史背景
 鎌倉幕府が滅んだ元弘三年/正慶二年(1333)、播磨国境に近い三石の地頭・伊東大和二郎が築城したといわれる。その後、赤松氏が備前国守護となると、浦上宗隆が備前国守護代となり三石城に入り、浦上氏の居城となる。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱により、赤松氏が没落すると備前国の守護は山名氏に代わる。しかし、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱を契機に赤松氏が備前国守護職に復帰すると三石城の浦上則宗も旧領を回復する。
 
 その後、則宗の孫・村宗の代になると浦上氏は、次第に主家の赤松義村と対立するようになり、永正十五年(1518)赤松義村の軍勢に三石城を攻撃されるが撃退。そして大永元年(1521)村宗は義村を播磨・室山城に幽閉したのち暗殺して、浦上氏は東備前及び西播磨に勢力を拡大していく。

 浦上村宗死後、家督を継いだ嫡男・政宗は居城を三石城から播磨・室山城に移し、三石城には弟の宗景が入る。やがて、政宗と宗景は対立するようになり、西播磨は政宗、東備前は宗景が領有し浦上氏は分裂することになる。その後、宗景が居城を備前・天神山城へ移し、政宗が赤松政秀に滅ぼされたのち、三石城は次第に存在意義を失い廃城になったと考えられる。



「三石城址登山口」の石碑

城北側の駐車スペース
ここから歩きとなる。

城について
 三石城は標高291mの天王山山頂に本丸を配置した山城である。備前国東端で播磨国の国境近くにあって、山間を通る山陽道を眼下に眺めることができる。現在でも城下にJR山陽本線と国道2号線が通っているように、国境を押さえる上で重要な拠点といえる。城の規模は南北300mほどで頂上部の本丸は結構広く、居館も備えていたようだ。本丸から南西方向に二の丸、三の丸が配されており、本丸西側が大手曲輪で大手門跡となっている。この大手門跡には立派な石垣が残っており、三石城跡の最大の魅力となっている。



登城道

登城道

登城道

出丸の鶯丸跡

鶯丸跡

堀切
本丸と鶯丸を区切る堀切

堀切

石垣跡

軍用石
比較的大きい石が散乱している。

軍用石

本丸跡

本丸跡

本丸の土塁

二の丸跡

二の丸跡

三の丸跡

馬場跡

大手門跡の石垣

大手門跡
大手門跡の石垣は三石城跡の一番の魅力といっていいでしょう。

大手門跡の石垣

大手門跡の石垣

三石城縄張図(現地案内板より)



三石城 関連年表
1333年
(元弘三年/正慶二年)
三石城を地頭の伊東大和二郎が築城。
1441年(嘉吉元年) 嘉吉の乱が勃発。浦上家の主筋である赤松満祐が討たれ、山名氏が備前の守護となる。
1467年(応仁元年) 応仁の乱が勃発し、赤松政則は東軍で参戦。赤松氏は旧領を回復し、守護職に復帰。
尽力した浦上則宗も三石城を取り戻す。
1519年(永正十六年) 浦上村宗、居城の三石城を赤松義村に攻められるが、撃退する。
1554(天文二十三年) 浦上宗景が居城を三石城から天神山城に移す。
その後、三石城は廃城になったと考えられる。


三石城跡 周辺図 スポンサーリンク
駐車場:城北側登城口に数台の駐車スペース。
最寄り駅:JR山陽本線「三石駅」

訪問年月:2007年6月




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