岡山城
(おかやまじょう)

別名:烏城、金烏城
国史跡、日本100名城(70)
場所 備前国
岡山県岡山市北区丸の内
築城者 上神高直、宇喜多秀家
築城年 天正十八年(1590)、※「石山城」正平年間(1346〜70)
主な城主 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠継・光政・綱政など
主な遺構 国指定重要文化財:本丸表向月見櫓、西の丸西手櫓
その他遺構:復元天守、曲輪、不明門、廊下門、土塀、石垣、内堀

歴史背景
 南北朝時代に南朝の功臣である名和氏の一族・上神高直が石山の地に城砦を構えたのがこの地での城の始まりとなる。戦国時代になると金光宗高が石山城を支配していたが、備前で勢力を伸ばしていた沼城主・宇喜多直家に城を奪い取られ切腹する。石山城を得た直家は、この地を本拠地と定め城に大改修を施す。そして、さらに勢力を伸ばし備前はもちろんのこと、美作、播磨、備中の一部にまで戦線を拡げていった。当初は毛利氏と手を結んでいた直家だが、織田信長の部将である羽柴秀吉が播磨から備前へと触手を伸ばしてくると織田側に鞍替えし、秀吉に味方するようになる。宇喜多軍は羽柴軍の傘下に入り、毛利軍と備前、備中、美作で激戦を交わすことになる。そんな中、直家は病気にかかり、まだ幼い息子の秀家を秀吉に託し天正九年(1581)に病死する。

 その後、秀吉は天下取りの過程で西の毛利の防波堤として宇喜多家を重要視した。また、秀家の母が秀吉の側室となったため、秀吉は幼い秀家を一族同様に扱い寵愛した。そして、秀吉の天下統一が一段落した天正十八年(1590)、秀吉の意向もあり秀家は石山城のすぐ東の岡山に新しく築城を始める。旧来の石山城の本丸を二の丸内郭とするなど宇喜多家57万石にふさわしい大規模城郭となる。当時の秀家は秀吉の寵愛を受け豊臣政権内でも重きをなし「備前宰相」と呼ばれ、岡山城の城下町も大いに栄えた。

 しかし、秀吉が死ぬと徳川家康が天下取りの野望をあらわにし、豊臣政権を私物化し始める。それに対抗するため秀家は石田三成などと共に兵を挙げ、家康率いる東軍と関ヶ原で激突するが、敗退し所領も失う。その後、秀家は八丈島に流され、岡山城には秀家ら西軍を裏切った小早川秀秋が宇喜多旧領を与えられ入城することとなる。秀秋は、岡山城の拡充、城下町の整備を積極的に進めたがわずか二年足らずで病死し、跡継ぎもおらず小早川家は断絶する。

 その後、慶長八年(1603)に、池田輝政の次男・忠継が備前岡山藩主となるがわずか5歳であったため、兄の利隆が代わって政務をとりしきり岡山城に入城する。ちなみに現在も存在する西丸西手櫓は、利隆の時代に建築された。そして、慶長十八年(1613)頃ようやく忠継が岡山城に入城するが早世。代わって弟の忠雄が元和元年(1615)に跡を継ぐことになる。この忠雄の治世の間に岡山城の整備拡張を行い、実質完成する。そして、寛永九年(1632)に忠雄の子・光仲と鳥取藩の利隆の子・光政(輝政の嫡孫)の間で国替えが行われ、光政が岡山城に入る。以後明治まで光政の系統、つまり池田家宗家が岡山城主で岡山藩を治めることになる。



後楽園から見た天守閣
手前が沢の池で左の小さい山が唯心山といわれる

正面から見た
天守閣

天然の堀として旭川が前面に流れている

月見橋から見た天守閣

後楽園から見た天守閣

南側から見た天守閣
 

城について
 岡山城は、標高約二十メートルの丘である岡山に本丸を配置した梯郭式の平山城であるが、どちらかといえば平城といっていい。往時には、天守閣をはじめ、三つの御殿、櫓三十五棟、多聞櫓六棟、城門二十七棟を備えた大城郭であった。本丸背後には旭川が流れ天然の要害となり、対岸にある後楽園が有事には防衛に大きな役割を果たす造りとなっている。それが、岡山城が後ろ堅固な城といわれる所以である。

 宇喜多秀家が築城した天守閣は昭和まで残り、国宝に指定された大変貴重な建造物だったが、アメリカ空軍の無慈悲な無差別空襲により消失。あまりにも残念過ぎる。

 現在は、復元された天守閣(鉄筋コンクリート工法)をはじめ、現存の櫓2棟(国指定重要文化財)、復元された門、堀や石垣などの遺構が残っている。天守閣はどこから見ても豪壮ですばらしいが、日本三名園の1つである後楽園から見る天守閣は特にすばらしい。



烏城公園入口
大手口にあたり、内下馬門が往時にはあった

内堀

中の段南東部に位置する大納戸櫓が建っていた石垣

大納戸櫓の古写真(現地案内板より)

岡山城の天然の堀となっている旭川

月見櫓(国指定重要文化財)
本丸を構成する「一二三段」の二段目に当たる中の段の北西角を
固める隅櫓で、池田忠雄が岡山城主であったときの城郭整備に伴い、
元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築といわれる。

本丸に建つ月見櫓(遠景)

下から見た月見櫓

天守閣と月見櫓

月見櫓遠景
 

下の段から見た不明門(復元)の西側と高石垣

不明門(あかずのもん)正面
普段はほとんど閉じたままで開くことがほとんど
なかったためこのように呼ばれるようになった。

不明門(あかずのもん)

本段側からみた不明門

表書院跡(手前の平地)
岡山藩の政治が行われた場所で
大小60を越える部屋がある建物があった。

宇喜多秀家の時代の石垣
近年の発掘により発見される。

廊下門(復元)

西側の高石垣土塀

本段南東の高石垣

本段南東の高石垣

本段南東の高石垣
宇喜多秀家に築かれた自然石を用いた野面積の石垣

天守閣礎石
天守閣がコンクリート工法で復元された時にここに移された。

下から眺めた天守閣

天守台の石垣

天守台の石垣

天守閣

天守閣

天守閣に続く階段

六十一雁木下門跡

六十一雁木上門

本丸から見た六十一雁木上門
本段から川手に通じる石段道の上にある門で、
段が61あったことからこう呼ばれた。

六十一雁木下門付近の石垣

時代の違う石垣

西の丸西手櫓(国指定重要文化財)
池田輝政の嫡子である池田利隆が慶長八年(1603)に
建築した現存櫓。

西手櫓遠景
現在は廃校となった内山下小学校の校庭に建っているため
非常に場所が分かりにくく、訪れる人はほとんどいない。

西の丸西手櫓
ビル解体に伴い県道27号沿いに姿を現した。

西の丸西手櫓
やはり石垣が見える外側から見る櫓がかっこいい。

池田光政公御居間址
西手櫓があった西の丸に池田光政は隠居後、居を構えた

池田家祖廟跡
この周辺が宇喜多直家居城の石山城本丸が
あったあたりと思われる。

宇喜多秀家築城以前の岡山城(石山城)本丸址碑

石山城本丸跡
現在は駐車場入り口となっている。

岡山城二の丸屋敷対面所跡の長屋門
現在の林原美術館入口

石山門跡に残る石垣
石垣の色が濃いあたりに石山門があった。

後楽園沢の池

後楽園延養亭
藩主が後楽園を訪れた時の居間として使われた。

後楽園沢の池

岡山城復元模型

岡山城 関連年表
1346〜1370年
(正平年間)
南朝の功臣・名和氏の一族・上神高直が石山の地に城砦を築く。
1521〜1528年
(大永年間)
金光備前が石山城主で金川城主の松田氏に仕えていた。
1570年(元亀元年) 宇喜多直家が金光宗高を滅ぼし、石山城を手に入れる。
1573年(天正元年) 直家、居城を沼城から石山城に移す。
1579年(天正七年) 直家、織田信長と手を結ぶ。以後、毛利氏と敵対するようになる。
1581年(天正九年) 直家、石山城にて死去。
1590年(天正十八年) 宇喜多秀家、岡山城の築城を開始する。
1597年(慶長二年) 岡山城の築城工事が完了する。
1600年(慶長五年) 関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、宇喜多家は改易。代わって小早川秀秋が岡山城に入城する。
1602年(慶長七年) 秀秋、死去。小早川家嗣子なく断絶。
池田忠継が城主になるも幼少のため兄の利隆が代わって岡山城に入り政務を執る。
1606年(慶長十一年) 宇喜多秀家、八丈島へ配流となる。
1632年(寛永九年) 池田光政が岡山城主となる。
1655年(明暦元年) 宇喜多秀家、八丈島にて死去。
1687年(貞享四年) 池田綱政が天下の名園・後楽園の造園を始め、14年歳月をかけ完成させる。
池田家(備前)が明治まで岡山城主として存続する。


岡山城 周辺地図 スポンサーリンク
駐車場:烏城公園駐車場(有料・普通車40台)
      岡山後楽園駐車場(有料・普通車570台)
最寄り駅:JR「岡山駅」

訪問年月:2004年4月、2006年2月、2008年12月、
2011年10月、2012年4月、2013年12月、2015年8月、
2017年11月
、2020年3月、2023年8月、2024年8月


岡山城 御城印

日本100名城スタンプ
70岡山城

御城印販売場所   スタンプ設置場所
 岡山城天守閣内B1階
(お土産ショップ)
 岡山城天守閣内1階


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