打吹城
(うつぶきじょう)
別名:倉吉城

打吹山遠景
場所 伯耆国
鳥取県倉吉市仲ノ町
築城者 山名師義
築城年 延文年間(1356年~1361年)
主な城主 山名氏(山名師義 他)、尼子氏、毛利氏、南条氏、
中村氏、池田氏家臣・伊木忠貞、池田氏家臣・荒尾氏
主な遺構 曲輪、石垣、堀切

歴史背景
 山名時氏の嫡男・師義は南北朝時代の延文年間に打吹城を築き、田内城から守護所を移した。山名時氏は足利尊氏に従い功績を挙げ伯耆・出雲・隠岐の守護となる。その後も時氏・師義父子ら山名一族は勢力拡大し一時11か国もの守護となり山名氏は隆盛を誇るが、時氏・師義が死去すると一族間で内紛が起き勢力は衰退していく。山名宗全の代になり山名氏は再び勢力を盛り返すが、応仁の乱が勃発しその最中に宗全が死去すると山名氏は再び衰退していく。

 戦国時代になると出雲の尼子経久が伯耆にも勢力を伸ばし打吹城の支配は尼子氏に移る。さらに毛利元就が山陰に進出を始めると毛利軍が尼子氏の領土を侵食していき、打吹城も毛利氏の支配下に置かれる。その後、織田氏家臣・羽柴秀吉の但馬侵攻が始まると毛利氏と織田氏の領土争いが起きるが本能寺の変で状況は一変する。羽柴秀吉と毛利輝元の和睦交渉の結果、打吹城を含む伯耆東3郡は羽柴氏傘下の南条氏の所有となる。

 関ヶ原の戦いで南条氏は西軍に味方したため改易となり、打吹城は新たに米子城主となった中村一忠の支配下となり、城番が置かれ、近世城郭として整備された。しかし慶長十四年(1609)一忠が急死し中村氏は無嗣断絶となり改易となる。一時幕府直轄地となり、その後安房の里見忠義が3万石の領主として倉吉に入封するが打吹城には入らず、やがて里見氏も無嗣断絶となる。

 元和三年(1617)、池田光政が32万5000石の領主として鳥取城に入ると、一国一城令もあり打吹城は廃城となり破却される。寛永九年(1632)、池田光政と池田光仲の領地替えが行われ光政は備前・岡山へそして光仲が鳥取城に入る。池田光仲の所領となった倉吉には重臣の荒尾氏が配され、のちに打吹山麓に陣屋(倉吉陣屋)が置かれた。



「打吹公園」石碑
公園、市役所駐車場入口に建っています。

倉吉陣屋跡案内板
成徳小学校前にあります。

打吹公園(羽衣池)
よく整備されている綺麗な公園です

「打吹城跡遊歩道入口」石碑

城について
 打吹城は標高204mの打吹山に築かれた山城で、周囲には天神川、国府川、小鴨川と三方に大きな川があり、また北に小さいながらも玉川が天然の堀となっている。山道は整備されており麓から約30分で山頂に到着できるが、急な斜面もあるので歩きやすい靴で登るのが良いでしょう。山頂近くには石垣跡と思われる箇所や堀切もみられ、それなりに山城跡を堪能することはできる。山頂部の本丸跡はそれほど広くはないが平地に掘削されておりここに曲輪があったことがよく確認できる。

 また打吹山には現在も原生林に覆われた自然林が多く残っており、かなり立派で見ごたえのある木もたくさんある。ただ今にも倒れてきそうな木もあり注意が必要。

 打吹山麓の倉吉陣屋が置かれていた場所は現在、成徳小学校になっており、石垣にその面影が残っているそうですが訪問した時は小学校が工事中であまり見ることができなかった。



鎮霊神社
日本のために命を捧げた戦没者の英霊を祭祀している神社

備前屋敷跡

鎮霊神社からの石段
雰囲気は最高です。

鎮霊神社からの登城道
いきなり草むらになります。

登城道
山道になるので歩きやすい靴が必要。

登城道

堀切跡

登城道
倒れそうな木もあるので注意が必要。

登城道
打吹山は原生林が多く残っており、大木もみられる

案内板
分かれ道には案内板があるので迷うことはない。

山頂の主郭部

山頂部の堀切
人工的な掘削から城の遺構と考えられる。

山頂部の堀切

山頂部の堀切

本丸の石垣跡

本丸の石垣跡

山頂部の本丸跡

「打吹城址」碑

天守台跡
山頂部の平地で一段高くなった場所がある。

天守台跡の石垣跡

本丸跡
そこそこの広さがある。

山頂部の登城道

山頂部の登城道

武者溜
一定の広さがあり、石垣が破却されたと思われる石が多く転がっている。

武者溜周辺の石垣跡

武者溜周辺の石垣跡

登城道
展望台経由の遊歩道の方が整備されていて歩きやすい。

石垣跡
所々に石垣跡と思われるものが見られる。

倉吉陣屋跡前に建つ「第五十三代横綱 琴櫻」の銅像
倉吉市出身。幕内優勝5回。

打吹公園すぐ近くにある倉吉白壁土蔵群


打吹城 関連年表
1356~1361年(延文年間) 山名師義が打吹山に城を築き、田内城より守護所を移す。
1500年代 打吹城の支配が山名氏から尼子氏に移る。
1562年(永禄五年) 毛利元就が尼子氏の本拠・月山富田城を攻撃を開始する。この頃、羽衣石城主・南条宗勝が尼子氏を離反して毛利氏に属し、打吹城も南条氏の支配となる。
1566年(永禄九年) 尼子氏の本拠・月山富田城が落城。尼子氏滅亡。
1575年(天正三年) 南条宗勝が病死し、南条元続が家督を継ぐ。
1579年(天正七年) 南条元続、毛利氏を離反し織田氏に属す。
1580年(天正八年) 羽柴秀吉の但馬・鳥取城攻めに伴い、吉川元春が南条氏を攻撃し打吹城は毛利氏の所有となる。
1584年(正保元年) 羽柴秀吉と毛利輝元の和睦交渉(領土境界交渉)により東伯耆3郡が南条氏に与えられ、打吹城も南条氏所有となる。
1600年(慶長五年) 関ヶ原の戦いで西軍に属した南条氏は改易。中村一忠が伯耆国の領主となり、打吹城には城番が置かれる。
1609年(慶長十四年) 中村氏無嗣断絶で改易となり、倉吉は幕府直轄領となる。
1614年(慶長十九年) 安房の里見忠義が3万石の領主で倉吉に入封するが、打吹城には入城しなかった。
1615~1624年(元和年間) 一国一城令により打吹城は廃城となり破却される。
1617年(元和三年) 池田光政が因幡・伯耆32万5000石の領主として鳥取城に入る。重臣の伊木忠貞を倉吉の統治に当たらさせる。
1632年(寛永九年) 池田光政に代わり池田光仲が鳥取城に入り、倉吉には重臣の荒尾氏が入る。その後も明治維新まで荒尾氏が打吹山麓に陣屋を構えて統治した。

打吹城 周辺地図 スポンサーリンク
 
駐車場:倉吉市役所裏等に無料観光駐車場あり
最寄り駅:山陰本線JR倉吉駅
訪問年月:2016年5月




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