大友宗麟
(おおとも そうりん)
大友家第21代当主

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別名、改名、通称 塩法師(幼名)、五郎、義鎮、ドン・フランシスコ(洗礼名)
官位、役職 左衛門督、九州探題、
豊後、豊前、肥後、肥前、筑前、筑後守護
生没年 享禄三年(1530)~天正十五年(1587)
墓所 京都府京都市北区紫野大徳寺 瑞峯寺
大分県津久見市津久見
ゆかりのお城 府内城、丹生島(臼杵)城

大友宗麟の生涯
 大友宗麟は、九州の名門・大友家の第21代当主で、一時は北九州六か国の守護職に任じられるほど北九州に強大な勢力を誇った。しかし、島津義久の北上、龍造寺隆信の台頭などにより次第に勢力は衰退し、最終的には豊臣秀吉を頼って何とか豊後一国は保った。また、キリシタン大名としても有名な人物である。



 宗麟は享禄三年(1530)に大友家第20代当主・大友義鑑の長男として豊後国・府内で生まれる。天文九年(1540)に元服して、義鎮と名乗る。

 父・義鑑は、始めは宗麟に家督を継がすつもりだったが、宗麟の異母弟である三男・塩市丸への溺愛からか、次第に宗麟の廃嫡を考え始め、実行しようとする。この義鑑の言動は大友家を二分することとなり、廃嫡反対派の家臣が義鑑や塩市丸を襲撃するという事件が起こる。塩市丸は殺害され、義鑑も重傷を負い宗麟の家督継承を認め、後日に息をひきとった。これにより、宗麟は大友家21代当主に就任することができたのである(二階崩れの変)。

 大友家の家督を継いだ宗麟は、まず御家騒動で動揺した家臣団をまとめあげ、領内の安定に努めた。それから、領外に目を向け勢力拡大に乗り出し、まず、二階崩れの変に乗じて肥後・隈本城を占拠していた叔父の菊池義武を大軍をもって追い出し、さらに北九州に目を向ける。天文二十年(1551)には、山口にいたフランシスコ・ザビエルを府内に招いてキリスト教の布教を許可した。これにより、ポルトガルとの貿易が盛んになり、さらに日明、日朝貿易を積極的に行った大友家の財務基盤は強化されていく。

 同年、大友家にとって都合のよい出来事が起こる。中国地方の名門で北九州にまで勢力を張っていた大内家の当主・大内義隆が重臣・陶隆房(晴賢)の謀反により殺害されたのである。さらに、隆房は宗麟の弟である晴英(のちの大内義長)を大内家の新当主にしたため、北九州での大内氏の脅威はなくなる。これにより宗麟は、北九州制圧に乗り出し、天文二十二年(1553)には龍造寺隆信や有馬氏を服属させて、翌年には幕府へ働きかけ肥前の守護職を獲得する。また、その年の十一月には、肥後で復権を目指す叔父の菊池義武をおびき出し殺害。そして、そのまま菊池氏を滅ぼし肥後でも勢力を伸ばし支配力を強める。その後も豊前、筑前に勢力を伸張し、弘治三年(1557)には両国をほぼ平定するが、この年、毛利元就が大内義長を滅ぼし、今度は毛利氏が北九州に触手を伸ばしてくる。大友家側に属していた豊前、筑前の諸領主も毛利元就の調略によって、毛利家側に反旗を翻す領主も現れ始め、筑豊両国は再び不安定な状態となっていく。筑豊で毛利氏と勢力争いを繰り広げる中、宗麟は幕府に働きかけ、永禄二年(1559)六月に筑前、筑後、豊前の守護に任じられ、11月には九州探題に任じられた。これにより、北九州の支配は幕府より認めれた形となり、格式的には毛利家に対して優位に立つこととなる。しかし、その後も毛利勢との筑豊での勢力争いは熾烈を極め、一進一退の攻防が繰り広げられる。さらに、永禄九年(1566)筑前南部の支配をまかせていた高橋鑑種が毛利氏に通じて離反し、龍造寺隆信も離反を繰り返すなどなかなか北九州の支配が安定しなかった。元亀元年(1570)には、龍造寺氏攻略のため佐嘉城を六万の大軍で包囲したが、龍造寺家の名将・鍋島信生(直茂)の夜襲により、一族の大友親貞が戦死するなど惨敗した(今山の戦い)。しかし、元亀二年(1571)に毛利元就が死去すると、毛利氏は北九州から手を引いたため、筑前、豊前両国の大友家支配がほぼ確立し、さらに反覆を繰り返していた肥前の龍造寺隆信も単独では大友家に対抗することができないので表立って反抗することはなくなり、再び傘下に入る。これにより、大友家は一応、北九州六か国をほぼ支配する大きな勢力をもつこととなる。

 大友家は全盛期を迎えることとなり、家督を義統に譲って宗麟は府内から丹生島城に移った。貿易の利益のためにキリスト教を保護していた宗麟だが、一方で自身のキリスト教への傾倒も強くなり、天正六年(1578)七月、キリスト教の洗礼を受け(洗礼名:ドン・フランシスコ)自身もキリスト教徒になる。このようなことから豊後国のキリスト教信者数は日本国内でも最大規模を誇ったが、旧来からの寺社や仏像の破却も行われたため、家臣団の中には不満や不快感を持つものも多くいた。

 天正五年(1577)、日向の伊東義祐が島津家に敗れて、宗麟を頼って豊後に落ち延びてきた。義祐は旧領・日向奪回を宗麟に願い出たため、宗麟は、それを口実に日向侵攻を決意(義統が主導した説もあり)。大友軍は4万以上ともいわれる大軍で、日向に侵攻すると、日向北部をあっという間に蹂躙し、島津家の重臣・山田有信島津家久籠る日向の要衝・高城を取り囲んだ。しかし、島津家も義久自ら4万の大軍を率いて救援に駆けつけ、大友・島津両軍は高城川付近で激突する。最後までこの戦に対する好戦派と慎重派の足並みがそろわなかった大友軍は島津軍の巧みな用兵の前に惨敗を喫する。敗走する大友軍を島津軍は耳川あたりまで執拗に追撃し、大友軍は重臣の多くを失い3千以上の戦死者を出したといわれる(高城川・耳川の戦い)。

 耳川の敗戦により、大友家に従属していた龍造寺、秋月、筑紫などの有力諸家が離反し始めたが、それを抑える余力が大友家にはすでに残されておらず、大友家の勢力は急速に衰退していく。大友家の衰退により急激に勢力を伸ばしたのが龍造寺隆信であるが、その隆信も島津家に敗れ、さらに大友家の名将・立花道雪の死などによりますます島津家北上の圧力は強まった。大友家存亡の危機を迎え宗麟は、大坂城まで出向いて、すでに中央で確固たる地位を築いていた豊臣秀吉を頼った。天正十四年(1586)十月、日向方面から島津家久が約2万の大軍を率いて豊後に侵入し、一気に宗麟が籠もる丹生島城と義統が守る府内に迫った。まず豊臣秀吉は救援部隊に、仙石秀久、十河存保、長宗我部元親などの四国勢を先遣隊として派遣した。しかし、この先遣隊は、戸次川の戦いで島津家久に散々に打ち破られ、府内も蹂躙されてしまう。島津軍は丹生島城にも攻撃を仕掛けたが、宗麟は「国崩し」と呼ばれる大砲などを駆使して、頑強に抵抗し何とか島津軍の攻撃を防いだ。天正十五年(1587)三月になると、秀吉自ら20万を超える大軍で九州に来援し、瞬く間に島津軍を蹴散し、島津義久は秀吉に降伏する。その直後の同年五月二十三日、宗麟は豊後・津久見で病死する。享年58。

 大友家は戦後、秀吉より豊後一国を安堵されるが、朝鮮出兵の際に義統の失態が秀吉の逆鱗に触れ改易されてしまう。義統は関ヶ原の戦いの時に、九州で西軍として再起を図るが東軍の黒田如水に敗れ大友家の再興はならなかった。



大友家の家紋
杏葉紋
祖父:大友義長

:大友義鑑

:大友義統、田原親家、田原親盛

兄弟:大内義長(晴英)、塩市丸

叔父:菊池義武

大友宗麟 関連年表
1530年(享禄三年) 大友義鑑の長男として豊後・府内で生まれる。
1540年(天文九年) 元服し、義鎮と称する。
1550年(天文十九年) 二階崩れの変により家督を継ぐ。
1551年(天文二十年) 陶隆房(晴賢)の謀反により大内義隆死去。翌年、弟・晴英が大内家の家督を継ぐ。
1553年(天文二十二年) 龍造寺氏、有馬氏ら肥前国衆を服属させる。
1554年(天文二十三年) 肥前守護職に任じられる。
叔父・菊池義武を誘殺。
1555年(弘治元年) 陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に敗れ、戦死する。
1557年(弘治三年) 大内義長が毛利元就に攻められ、自害。大内氏滅亡。
1558年(永禄元年) 豊前・門司城を毛利元就に奪われ、九州に橋頭堡を確保される。
1559年(永禄二年) 筑前、筑後、豊前の守護職に任じられ、九州探題職を得る。
1561年(永禄四年) 1万5千の大軍で門司城奪回を試みるも、毛利軍が大軍で救援に駆けつけたため作戦は失敗する。(門司城の戦い
1562年(永禄五年) 出家・剃髪して瑞峯宗麟と号す。
1566年(永禄九年) 重臣で筑前・宝満山城主の高橋鑑種らが毛利元就に通じて反旗を翻す。
1569年(永禄十二年) 毛利軍を策略により九州より撤退させることに成功し、高橋鑑種ら筑豊の国人を屈服させる。
1570年(元亀元年) 龍造寺隆信が籠もる佐嘉城攻めで、一族の大友親貞が討死。(今山の戦い
1573年(天正元年) 家督を嫡男・義統に譲り、丹生島城に移る。
1578年(天正六年) 7月、宗麟、キリスト教の洗礼を受ける。(洗礼名:ドン・フランシスコ)
11月、大友軍、耳川の戦いで島津軍に惨敗する。
1584年(天正十二年) 沖田畷の戦いで島津軍が龍造寺隆信を討ち取るなどして大勝する。
1585年(天正十三年) 名将・立花道雪が病死。
1586年(天正十四年) 7月、島津軍に攻められた岩屋城で城主・高橋紹運ら城兵約700名が玉砕死。(岩屋城の戦い
12月、戸次川の戦いで豊臣軍が島津軍に敗れる。
1587年(天正十五年) 4月、豊臣秀吉による九州征伐によって島津義久が降伏。
5月、豊後・津久見で病没。享年58。




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