南蛮寺跡(なんばんじあと)

  場  所: 京都府京都市中京区蛸薬師通室町西入北側


「此付近南蛮寺跡」石碑
南蛮寺はこの石碑の北側・姥柳町辺りにあったといわれる


 イエズス会は、永禄二年(1559)頃から足利義輝の許可を得て京都でキリスト教の布教を開始する。そして永禄四年(1561)京都の姥柳町辺りにキリスト教の礼拝堂が建てられる。永禄十一年(1568.)織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、その後海外貿易の拠点である堺も支配下に置く。そして信長はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスらと対面し、ポルトガルとの交易を条件に畿内でのキリスト教布教の許可した。信長という権力者の後ろ盾を得たことにより、宣教師の布教活動もスムーズになりキリスト教信者の数も増加した。
 天正四年(1576)、数百人の信者と信長の家臣で京都所司代・村井貞勝の援助により、古くなった礼拝堂を建て替えられる。これが南蛮寺である。
 キリシタン大名が多い九州でキリシタンによる神社仏閣や仏像の破壊が多数みられたことや長崎がイエズス会へ寄進されていたこと等が一因となり、豊臣秀吉は九州征伐後の天正十五年(1587)六月、伴天連追放令を出しキリスト教弾圧へと舵を切る。これにより南蛮寺も破壊された。

 南蛮寺跡は本能寺跡のすぐ東側に位置する。

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駐車場:なし


訪問日:2023年5月


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