萩城
(はぎじょう)
別名:指月城

国史跡、日本100名城(75)
場所 長門国
山口県萩市堀内
築城者 毛利輝元
築城年 慶長九年(1604年)
主な城主 毛利輝元、毛利秀就など
(江戸時代を通して長州・萩藩毛利家が城主)
主な遺構 石垣、堀、天守台、曲輪、門(復元)

歴史背景
 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、石田三成や安国寺恵瓊らにそそのかされ西軍の総大将になった毛利輝元元就の孫)だが、毛利家自体、吉川広家が徳川家康に通じるなど一枚岩ではなかった。そのため、西軍で主力の一部と見られていた毛利家は関ヶ原の戦いでたいした働きも出来ず、西軍は敗北。毛利本隊は温存されていたため、大坂城に籠城する意見も出たが、家康の本領安堵の約束を信じ本国に帰る。しかし、家康はその約束を反故にして毛利家を取り潰そうとし、関ヶ原本戦で毛利軍の動きを封じ込めた吉川広家に防長2国を与えようとする。毛利本家の事を考え行動した広家にとってまさに晴天の霹靂で、広家は毛利家存続に奔走し、なんとか毛利家本家は周防・長門36万9千石の領主の地位は確保されることとなる。この時の処置に毛利家は、渋々従うが内心、家康への怒りと恨みでいっぱいであった。そのため、毛利家ではこの時の恨みを忘れぬように江戸時代を通して幕府のある江戸に足を向け寝たといわれる。それを250年経っても忘れず、長州の倒幕への行動に駆り立てたのである。

 周防・長門に入った輝元は関ヶ原の敗戦の責任を取って家督を嫡男の秀就に譲ったが、秀就は若年のため実質実権は輝元が握った。輝元は新領地の居城を建設するため、山口、萩、防府の3箇所を候補として幕府に申請すると、幕府は萩の地を指定。幕府は、西国の雄・毛利家に依然警戒しており、交通の便の悪い日本海側の萩を指定して来たのである。慶長九年(1604)には、萩に築城を開始し、慶長十三年(1608)に完成。以後、毛利家の居城としての機能を果たし、幕末から明治維新にかけて長州藩(萩の地)が新しい時代に向けて大きな役割を果たすのである。



極楽橋本丸跡

現在も残る天守台

城について
 萩城は指月山(標高143m)の麓にあり、指月山頂にも要害である詰丸が設けらていた。阿武川デルタの根元を横断し外堀とし、その内が城域となり、外が城下町であった。外堀の内に三の丸、中堀の内が二の丸、内堀の内に本丸が設けられた。本丸には、天守閣、本丸御殿、櫓が、二の丸には櫓12棟が立ち並んでいたが現在はどの建物も残っていない。しかし、二の丸には、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国重文)が現存している。

 萩は何といっても幕末の志士逹が若い頃過ごした街として有名。街全体が城下町としての雰囲気を色濃く残していて、松下村塾や高杉晋作の生家、桂小五郎旧宅など幕末ファンならずとも、歴史好きなら満足できる観光地だ。



萩城天守閣古写真

萩城を築城した毛利輝元像
毛利元就の跡を継ぎ豊臣政権では中国地方8カ国
112万石を有したが、関ヶ原の役後37万石に転落。

二の丸南門跡付近
二の丸から本丸に通じる通路で石垣により曲がりくねっている。

萩城趾碑
本丸に渡る極楽橋手前に建つ。

手前が本丸の石垣、後方の山が指月山

内堀

本丸石垣の内側

天守台に上る階段

天守台から北西方向の堀

天守台から東方向の堀

花江茶亭
藩主の別邸にあった茶室を移築したもの。

指月山登上口
今回は登る事を断念。

東園跡
庭園であり藩主のくつろぎ所であった。
また、藩主自身がこの地で稲田を耕したと伝わる。

日本海
萩城は日本海に面しているため海城ともいわれる。
日本海なので海がきれいです。

潮入門跡
海側にあった門跡。

銃眼土塀
海側に向けて巡らされた銃眼土塀で
昭和40年に一部を復元。

外堀
城域の一番外側にあたる。

北の総門
萩城三の丸の東側にあたる出入口。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国指定重要文化財)
厚狭毛利家は毛利元就の五男・元秋の跡を継いだ八男・元康を始祖とする
毛利一門で、厚狭に約8000石の知行地を持っていた。
長屋の桁行は51.5mにもおよぶ。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
内部を見ることが出来る。

萩城の模型
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の中に展示されている。

天樹院墓所(国指定史跡)
藩祖・輝元と夫人、そして殉死者1名の3基の墓石がある。

東光寺大雄宝殿(国指定重要文化財)
三代藩主・毛利吉就が建立。彼の死後、東光寺は毛利家の菩提寺となる。

東光寺毛利家廟所(国指定史跡)
萩藩主三代吉就、五代吉元、七代重就、九代斉房、十一代斉元と
各夫人10基ほか、枝葉近親者などの墓石、石碑、石灯籠
約500基が整然と立ち並ぶ光景は圧巻。

萩城城下町の風景
萩城城下町は昔ながらの街並みが残る。

松下村塾(国指定史跡)
わずか1年から2年半ほどであるがここで吉田松陰から教育を受けた
高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、山県有朋らは、
倒幕から明治維新にかけて大きな役割を担った。

高杉晋作誕生地
長州藩の反幕勢力の軍事的基盤となった我国初の身分を問わない
軍隊である奇兵隊を組織した高杉晋作の生誕地。

木戸孝允旧宅(国指定史跡)
木戸孝允(桂小五郎)は江戸に出るまでの約20年間ここで過ごした。


萩城 関連年表
1600年(慶長五年) 関ヶ原の敗戦で毛利輝元は、周防・長門約37万石へ大減封となる。
1603年(慶長八年) 輝元は、新城地の候補に山口の高嶺、防府の桑山、萩の指月山の三つを挙げ、幕府との協議の末、萩の指月山に決定する。
1604年(慶長九年) 萩の指月山で築城を開始する。
1608年(慶長十三年) 萩城完成。
1863年(文久三年) 十三代藩主・毛利敬親が藩庁を萩から山口に移す。

萩城 周辺地図 スポンサーリンク
 
駐車場:有料駐車場有り(市営)
最寄り駅:JR萩駅
訪問年月:2008年8月




戦国探求TOPページお城めぐり



Copyright (C) 2009-2024  戦国探求 All Rights Reserved