月山富田城
(がっさんとだじょう)
別名:月山城

国史跡、日本100名城(65)
場所 出雲国
島根県安来市広瀬町富田
築城者 佐々木義清?
築城年 文治元年(1185)頃?
主な城主 尼子経久、尼子晴久、尼子義久、
毛利元秋、吉川元春、吉川広家、堀尾吉晴など
主な遺構 石垣、曲輪、堀切、井戸、侍所(復元)、主屋(復元)

歴史背景
  月山富田城の築城時期は諸説があり、はっきりしないが、応永二年(1395)に出雲守護・京極高詮の守護代として尼子持久(経久の祖父)が富田城に入城している。以後、尼子氏が滅びるまでその居城としての役割を果たす。尼子氏の全盛期は、経久晴久の時で山陰を中心に11カ国にも及ぶ広大な地域に勢力が及んだ。この頃に、富田城も難攻不落の巨城に整備されたと思われる。しかし、尼子氏の隆盛は長く続かず、大内・毛利氏とも互角にわたりあった晴久が急死し、義久が後を継ぐと毛利元就が出雲・石見に侵攻してくるようになる。そして、永禄八年(1565)には、毛利軍が富田城を完全包囲する。元就は、富田城が堅城であるため、被害が大きくなる力攻めより兵糧攻めを選択し、尼子軍の補給路も完全に遮断。富田城は孤立無援となり、将兵は飢餓に苦しみ、永禄九年(1566)十一月二十一日ついに義久は、毛利軍に降伏する。これにより、尼子氏は事実上、滅亡する。

 以後、毛利家が城を支配するようになる。その毛利家も関ヶ原の戦いの西軍敗退により城を手放し、代わりに堀尾吉晴が入城してくる。しかし、堀尾氏は、富田城が城下町の発展や出雲支配の政治拠点として適さないことから、慶長十六年(1611)に松江城に拠点を移す。これにより、富田城は廃城となってしまう。



月山富田城遠景

「史跡 富田城跡」

山中御殿平

月山富田城全景模型(拡大)


城について
月山富田城は、飯梨川右岸の月山(海抜189m)を中心にして築かれた複郭式の山城である。城郭は内郭、外郭から構成され、塩谷口、お子守口、菅谷口の3つの入口がある。周囲は断崖絶壁が多く、防衛上、軍政統治上も欠く事の出来ない立地条件を具備しており、中国地方における中世城郭の代表的な城跡として重要視されている。(現地案内板参照)

 富田城は、大内義隆、毛利元就などが力攻めでは、落とすことが出来なかった戦国時代を代表する難攻不落の名城である。規模も、山陰の雄・尼子氏の居城に恥じない広大な範囲にわたって縄張りされている。特に、山中御殿平は広さ6000平方メートルにもおよび、迫力のある大石垣に囲まれており、尼子氏の往時の繁栄をしのばせる。また、周囲には多くの尼子関連の史跡があり、そちらも必見である。



千畳平

太鼓壇に建つ山中鹿介幸盛
鹿介は尼子氏滅亡後も主家再興を願い、「願わくは
我に七難八苦を与えたまえ」
と、三日月に願ったが
最終的には毛利によって首をはねられる

花の壇に続く通路

花の壇にある復元された主屋、侍所
後方に月山

山中御殿に続く通路

菅谷口、櫓跡

上御殿平
城主の館があった場所。

山中御殿平石垣(復元)

月山軍用道

曲輪のある山頂部に続く七曲がりといわれる
急峻で曲がりくねった通路

三の丸入口通路
わざと入口を曲げて攻めにくくしている

三の丸

二の丸

本丸
二の丸から見た本丸でその間には空堀(堀切)がある

二の丸からの眺め

大手門跡
往時には石垣の上に櫓があって
幅約15m,高さ約4.5mの巨大な門であったといわれる。

月山富田城近くの三日月公園にある尼子経久像
大内氏に匹敵するほどまでに
尼子氏の勢力を拡大させた戦国屈指の名将。

月山富田城に隣接する城安寺
広瀬藩松平氏の菩提寺。

月山富田城近郊にある新宮党館跡
尼子軍の中で精鋭といわれた新宮党(尼子国久・誠久父子など)だが、
晴久により粛清された。毛利元就の謀略ともいわれる。

月山富田城近郊にある山中鹿介幸盛生誕の地
この地に山中家の屋敷があり、ここで鹿介が誕生したとされる。

月山富田城 関連年表
1185年(元暦二年) 佐々木義清、出雲・隠岐の守護となり、富田に入る。
1395年(応永二年) 尼子持久、京極高詮の守護代として富田城に入る。
1484年(文明十六年) 経久、守護代の地位を追われ、富田城を失う。
代わりに、塩冶掃部介が守護代となり富田城主となる。
1486年(文明十八年) 経久、正月祝いに興じる塩冶掃部介を急襲し、富田城奪還に成功する。
1537年(天文六年) 経久、孫の晴久に家督を譲る。
1541年(天文十年) 経久死去(享年84)。
1543年(天文十二年) 晴久、侵攻してきた大内・毛利連合軍を撃退する。(第一次月山富田城の戦い)
1554年(天文二十三年) 晴久、新宮党を粛清する。
1560年(永禄三年) 晴久死去(享年47)。義久、跡を継ぐ。
1565年(永禄八年) 毛利元就、富田城を3方面より攻撃するが失敗する。以後、包囲して兵糧攻めに切り替える。
(第二次月山富田城の戦い)
1566年(永禄九年) 義久、毛利に降伏し、富田城を開城する。(尼子氏滅亡)
1569年(永禄十二年) 山中鹿介、尼子勝久を担いで出雲で軍を起こし、富田城を攻めるも落とせず。
1570年(元亀元年) 毛利本隊が来援し、布部山で毛利軍と尼子軍が激突するが、尼子軍敗れる。
1578年(天正六年) 上月城、毛利軍の攻撃により落城。勝久は自害し、山中鹿介は捕らわれるが後に殺害される。
1591年(天正十九年) 吉川広家が12万石の領主として、富田城に入城。
1600年(慶長五年) 堀尾吉晴が24万石の領主として、富田城に入城。吉川広家は周防・岩国へ転封。
1611年(慶長十六年) 堀尾氏、居城を松江城に移し、富田城を廃城とする。


月山富田城 周辺地図 スポンサーリンク
 
駐車場:道の駅・広瀬富田城の無料駐車場
最寄り駅:JR山陰本線安来駅
訪問年月:2008年9月、2016年9月、2023年11月





日本100名城スタンプ 
65月山富田城
 御城印販売場所  スタンプ設置場所
・安来市立歴史資料館
・広瀬絣センター
安来市立歴史資料館入口 



近隣史跡
新宮党館跡 洞光寺(尼子経久墓所) 尼子晴久の墓 山中屋敷跡(山中鹿介生誕地)
巌倉寺(堀尾吉晴墓所) 毛利元秋墓所(宗松寺跡) 伝・堀尾忠氏墓 塩冶掃部介墓所





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