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赤穂城 (あこうじょう) 別名:加里屋城(仮屋城)、大鷹城 国史跡、日本100名城(60番) |
三の丸大手隅櫓 |
場所 | 播磨国 兵庫県赤穂市加里屋 |
築城者 | 岡豊前守(赤松氏一族) | |
築城年 | 享徳年間(1452〜1455)又は 文正元年〜文明十五年(1466〜1483) |
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主な城主 | 生駒親正、宇喜多氏、池田長政、池田政綱、池田輝興、 浅野長直、浅野長矩、永井直敬、森長直 |
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主な遺構 | 天守台、石垣、水堀、曲輪(本丸・二の丸・三の丸)、 復元:三の丸大手隅櫓、大手門、本丸門、土塀、二の丸庭園 その他:大石内蔵助邸長屋門(現存) |
歴史背景 |
室町時代に岡豊前守(赤松氏の一族)が加里屋城を築いたのが始まりといわれる。豊臣時代には生駒親正、のちに宇喜田秀家が赤穂の地を治めた。 関ヶ原の戦い後に池田輝政は播磨・姫路52万石を与えられ、加里屋城には輝政の末弟・池田長政を2万2000石領主として配した。そして現在の赤穂城地に掻上城を築いて小早川秀秋との国境を固めた。池田氏一族の支配が続いたが正保二年(1645)池田輝興が刃傷事件を起こし赤穂池田藩は取り潰しとなる。 これに代わり常陸国笠間より浅野長直(浅野長政三男・浅野長重の子)が5万3500石で赤穂に入り、慶安二年(1649)赤穂城の築城に着手した。そして13年以上かかり寛文元年(1661)に完成させる。築城工事は甲州軍学者の近藤正純が縄張りを行い、兵学者・山鹿素行の助言で二ノ丸周辺の縄張りを一部変更した。 播磨赤穂藩浅野氏三代藩主が世に有名な浅野長矩(内匠頭)で、元禄十四年(1701)に江戸城本丸御殿松之大廊下で吉良義央(上野介)に対して刀傷事件を起こし長矩は切腹となり赤穂藩は取り潰しとなる。浅野氏の改易後、元禄十五年(1702)下野・烏山藩の譜代大名・永井直敬が3万3000石で赤穂に入封する。同年末、大石内蔵助ら赤穂藩士による吉良邸討入りが起きる。 永井直敬の治世はわずか5年ほどで宝永三年(1706)信濃・飯山へ転封となり、代わって備中・西江原より森長直が2万石で入封する。以後森氏が12代に渡って明治廃藩まで赤穂を治めた。 |
三の丸大手隅櫓 昭和三十年に外観復元 |
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三の丸外堀 |
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三の丸外堀 |
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三の丸土塀 |
城について |
現在残る赤穂城は浅野氏が築いたもので、5万石余の大名が築城したとは思えないくらい広大かつ各所に残る石垣も立派な造りとなっている。城は変形輪郭式の平城で南側は現在埋め立てられているが以前は瀬戸内海に接していたようだ。さらに東側には加里屋川、千種川が流れ、西側も幾重にも水堀が張り巡らされており、水運の便を生かした堅固なつくりとなっている。往時には10の隅櫓、12の門があり、本丸には天守閣は建設されなかったが天守台、御殿、庭園まで設けられていた。浅野氏は石高5万石余だが、赤穂は江戸時代から塩の生産地として有名で石高以上の経済力を有していたため、このような広大な城を築城できたのかもしれない。 明治時代に櫓等の破却が行われたが昭和三十年(1955)には三の丸大手隅櫓と追手門が外観復元され、平成八年(1996)の本丸表門・土塀など近年も復元整備が着々と進んでいるようだ。 |
大手門(復元) 高麗門の造りである |
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内側から見た大手門 |
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大手門と隅櫓古写真(現地案内板より) |
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大手門桝形 |
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本丸表門(一の門、二の門)と土塀 平成八年に復元 |
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本丸土塀、石垣 |
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本丸表門(一の門) |
本丸御殿跡と本丸表門(一の門)を天守台より望む |
天守台 天守閣が建てられることはなかった。 |
本丸御殿跡 |
本丸御殿跡 |
本丸庭園と石垣 |
三の丸・東北隅櫓跡 |
石垣 |
二の丸外堀 |
二の丸門跡 |
武家屋敷の門 |
武家屋敷跡 |
大石内蔵助良雄宅長屋門 |
大石神社入口 四十七士の石像が並ぶ |
赤穂城関連年表 |
1452〜1455年 (享徳年間) |
赤松氏の一族である岡豊前守光景が加里屋城を築く。 |
1466〜1483年 (文正元年〜文明十五年) |
岡豊前守光広が加里屋城を築く。 |
1586年(天正十四年) | 生駒親正が伊勢・神戸より赤穂に6万石の領主として入封する。 |
1587年(天正十五年) | 生駒親正の讃岐への転封に伴い、赤穂が宇喜田秀家の領地となる。 |
1600年(慶長五年) | 関ヶ原の戦いで宇喜田秀家改易となり、池田輝政が播磨・姫路52万石の領主となる。輝政の末弟・池田長政が2万2000石の領主として加里屋城に入城する。 |
1645年(正保二年) | 池田輝興、刀傷事件を起こし赤穂藩池田氏改易。浅野長直が常陸・笠間より5万3500石の領主として赤穂に入封する。 |
1649年(慶安二年) | 浅野氏による赤穂城の築城が開始される。 |
1661年(寛文元年) | 近世城郭の赤穂城が完成する。 |
1701年(元禄十四年) | 赤穂藩浅野氏三代目藩主・長矩が江戸城本丸松之廊下にて刀傷事件を起こし、赤穂藩浅野氏取り潰しとなる。 |
1702年(元禄十五年) | 9月、浅野氏に代わり永井直敬が下野・烏山より3万3000石の領主として赤穂に入封する。 12月、大石内蔵助率いる赤穂藩四十七士が吉良邸に討入る。 |
1706年(宝永三年) | 永井氏に代わり、森長直が備前・西江原より2万石の領主として赤穂に入封する。 以後森氏が明治の廃藩まで12代続く。 |
周辺地図 | スポンサーリンク |
駐車場:約70台(無料) 最寄り駅:JR赤穂線「播州赤穂駅」 訪問年月:2006年2月、2022年4月、2024年1月 |
赤穂城 御城印 |
日本100名城スタンプ 60赤穂城 |
御城印販売場所 | スタンプ設置場所 |
・赤穂市観光情報センター (JR播州赤穂駅2階) |
・赤穂城本丸櫓門下 ・赤穂市立歴史博物館 |
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