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伊予松山城 (いよまつやまじょう) 別名:勝山城、金亀城 国史跡、日本100名城 |
松山城天守閣 |
場所 | 伊予国 愛媛県松山市丸之内 |
築城者 | 加藤嘉明 | |
築城年 | 慶長七年(1602年)に着手 | |
主な城主 | 加藤嘉明、蒲生忠知、松平定行、松平定頼など | |
主な遺構 | 国指定重要文化財:大天守、乾櫓、野原櫓、一ノ門、 一ノ門南櫓、紫竹門、隠門、隠門続櫓、戸無門、 筋鉄門東塀、仕切門など計21棟 その他:櫓、門、石垣、水堀、井戸、塀、曲輪、土塁 |
歴史背景 |
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に味方し、最前線で活躍した加藤嘉明は、その戦功により伊予国正木(松前)10万石から20万石に加増される。大封となった嘉明は足立重信を普請奉行に据え、道後平野中央の勝山に慶長七年(1602)から築城を開始した。翌八年(1603)十月には居を新城下に移し、松山という名称が初めて公にされたといわれる。その後も築城工事は続き、25年間かかって寛永四年(1627)にようやく完成。当時の天守は五重で偉容を誇ったといわれる。しかし、完成直前に嘉明は40万石に加増され会津に移封となる。 加藤嘉明に代わり24万石の領主として松山に入封してきたのが出羽・上山城主・蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)である。忠知は二の丸の整備に力を注ぎ完成させたが、寛永十一年(1634)二月に参勤交代の途中に京都で病没し蒲生家は嗣子なく断絶となる。 その後、寛永十二年(1635)七月に伊勢・桑名から松平定行(徳川家康の異父同母弟の松平定勝の子)が15万石で松山に入封する。以後、親藩・松平(久松)家が明治維新まで代々居城した。寛永十九年(1642)定行は、三年の年月をかけ、築城当時五重だった天守を三重に改築した。地盤の弱さからとも幕府への配慮ともいわれている。その三重の天守も天明四年(1784)元旦に落雷で消失するが、安政元年(1854)に天守を復興させた。これが現在の天守で、親藩・松平氏が黒船来航の翌年に復興させたため、、わが国最後の完全な城郭建築となった大天守は現存12天守の中で唯一、築城主として葵の御紋が付された天守である。 |
大天守と小天守 |
大天守(国指定重要文化財) 安政元年(1854)に再建。 |
城について |
伊予松山城は松山平野中央部にあり、勝山(標高132m)の山頂に本丸がある連立式天守の平山城である。姫路城、和歌山城とともに日本三大平山城のひとつに数えられている。山頂に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸を整備した広大な規模の城郭である。天守は安政元年(1854)再建と全国に12ある現存天守の中で一番新しいがその姿は重厚で美しい姿を見せてくれる。天守の他にも20棟が国の重要文化財に指定され、戦災や不審火で失われた建造物も木造で多く復元されている。また天守曲輪、本丸、二之丸の石垣がほぼ完全に残っており当時の縄張りもほぼそのままで、非常に見所の多い全国でも屈指の名城である。 この城は観光用でロープウェイかリフトで本丸まで一気に行くことができ、そちらから登る人が非常に多いが、無料駐車場もある二之丸史跡庭園の下から登るのが城好きにはおすすめである。 |
黒門跡 大手登城道の三之丸から二之丸への入口の門にあたる。 |
黒門口登城道の石垣群 大手登城道にあたり、特に堅固な構えとなっていたようだ。 |
二之丸の石垣 |
二之丸多聞櫓 |
二之丸史跡庭園 |
二之丸模型 |
二之丸大井戸遺構 東西18m、南北13m、深さ9mで主に防火用。 |
黒門口登城道 二之丸史跡庭園から本丸に続く大手登城道 |
登り石垣最上部 |
太鼓櫓 本丸南腰郭に侵入してくる敵に備えた。 |
戸無門 本丸の大手入口の最初に設けられた高麗門で門扉がないので 戸無門と呼ばれる。 |
筒井門 正木城から移築されたと伝えられる松山城最大の門で 大手からの敵に備えた。 |
隠門(国指定重要文化財) 筒井門の奥の石垣の陰に隠された埋門形式の櫓門。 戸無門から筒井門に迫る敵の背後を急襲する構えとなっている。 |
隠門続櫓(国指定重要文化財) |
太鼓門西塀 |
巽櫓 |
太鼓門 本丸大手の正門と位置付けられている脇戸付櫓門。 |
本丸井戸 南北2つの峰を埋め立てて造った本丸だが、谷底にあった泉を井戸として 残したといわれる。直径2mで深さは44mもある。 |
紫竹門東塀(国指定重要文化財) 乾門方面からの攻撃に備えたもの。 嘉永年間(1848〜1854)の再建。 |
小天守 二重櫓で小天守東櫓とも呼ばれる。 大手の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にある。 |
一ノ門(国指定重要文化財) 天守に通じる本壇入口を守る門で上方からの攻撃が容易な 脇戸付高麗門。天明六年(17864)に再建。 |
二ノ門(国指定重要文化財) 本壇における第二番目の門で、脇戸付薬医門。 安政元年(1854)に再建。 |
三ノ門(国指定重要文化財) 本壇における第三番目の門で高麗門。 安政元年(1854)に再建。 |
三ノ門南櫓(国指定重要文化財) 平櫓で、天守への侵入路に沿って突揚戸、石落、狭間が備えられている。 基本的には武器、弾薬、米、塩などを貯蔵する櫓。 安政元年(1854)に再建。 |
筋鉄門 櫓門で、天守玄関である中庭を防衛する重要な門 |
玄関・玄関多聞・十間廊下 |
十間廊下内部 |
鉄砲狭間と石落とし |
左から三ノ門南櫓、二ノ門南櫓、一ノ門南櫓(3棟とも国指定重要文化財) |
三之丸 |
天守からの風景 手前に二之丸、奥の広い所が三之丸。 |
手前から馬具櫓、太鼓櫓 |
内門 天守閣の西側に位置し、仕切門との間は枡形になっている。 |
仕切門(国指定重要文化財) 天守閣の北側に位置する脇戸付高麗門。内門との間は枡形になっている。 安政元年(1854)に再建。 |
筋鉄門東塀(国司指定重要文化) 一ノ門南櫓・一ノ門・小天守閣を防衛する。 安政元年(1854)に再建。 |
紫竹門(国指定重要文化財) 本丸の大手と搦手を仕切る脇戸付高麗門。 搦手を守る重要な門の一つ。 嘉永年間(1848〜1854)の再建。 |
紫竹門西塀 |
左から南隅櫓・十間廊下・北隅櫓 搦手にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓 |
乾門・乾門東続櫓 慶長年間に加藤嘉明の居城であった正木城から移築されたといわれる。 松山城の搦手の門の中で最も重要な構えとなっている。 |
乾門東続櫓東折曲塀 高い石垣も含めてかなり堅固な造りとなっている。 |
乾櫓(国指定重要文化財) 二重の隅櫓で、乾門・乾門東続櫓とともに搦手を防衛する重要な櫓である。 慶長年間(1596〜1615)に正木城より移築されたと推定され、 野原櫓とともに城内最古の建造物と考えられている。 |
野原櫓(国指定重要文化財) 乾櫓とともに本丸西北を防備する。日本で唯一現存する望楼型二重櫓。 慶長年間(1596〜1615)に正木城より移築されたと推定され、 乾櫓とともに城内最古の建造物と考えられている。 |
艮門(うしとらもん) 脇戸付の櫓門。 本壇の鬼門(北東)にあたり不浄門ともいわれる。 この方面の防御とともに出撃口としての意味ももつ。 |
艮門東続櫓 二重櫓で東側の防衛を担っている。 |
三之丸の水堀と土塁 |
東雲口のロープウェイ乗り場の近くにある加藤嘉明像 加藤嘉明(1563年〜1631年) 秀吉の家臣で賤ヶ岳七本槍の一人として有名。 武功によって出世を重ね伊予松前6万石の領主となり、 関ヶ原の戦いでは徳川方で戦い、伊予半国20万石の大名となる。 |
ロープウェイ乗り場 松山は歴史小説「坂の上の雲」の三人の主人公の故郷でもある。 |
28サンチ榴弾砲 明治時代に実際に使われたもののレプリカで 「坂の上の雲」のドラマで使われたもの。 |
伊予松山城 関連年表 |
1600年(慶長五年) | 関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した加藤嘉明は、伊予半国20万石の領主となる。 |
1602年(慶長七年) | 普請奉行に足立重信を据え松山城の築城工事を開始する。 |
1603年(慶長八年) | 嘉明、正木城から松山城に居を移す。 |
1627年(寛永四年) | 嘉明、会津に40万石の領主として転封となる。 松山城が一応完成する。 嘉明に代わり、蒲生氏郷の孫・忠知が出羽・上山城より伊予・松山へ24万石の領主として入封する。 |
1634年(寛永十一年) | 蒲生忠知、参勤交代の途中に京都で病没。嗣子がいないため蒲生家断絶。 |
1635年(寛永十二年) | 松平定行が伊勢・桑名より伊予・松山へ15万石の領主として入封する。 以後、松平氏が代々城主となる。 |
1642年(寛永十九年) | 定行、三年かけ天守を五重から三重に改築する。 |
1784年(天明四年) | 落雷により天守が消失。 |
1854年(安政元年) | 天守が再建される。 |
松山城 本壇 配置図 (現地案内板より) |
伊予松山城 周辺地図 | スポンサーリンク |
駐車場:松山城駐車場(有料・20台) 二之丸史跡庭園専用駐車場(有料・31台) 最寄り駅:JR「松山駅」 訪問年月:2012年5月 |
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